紅葉には、もう一段の冷え込みを必要としています

大阪府

今年の紅葉は遅くなっています、今ようやく緑から黄色の紅葉に変化しているところです。

秋を迎え、徐々に気温が下がりはじめると、光合成から受けるエネルギーが小さくなり、木が葉を維持するためのエネルギー量と採算が合わなくなってきます。

そのため、耐えきれなくなった木は葉っぱを落とすための準備を始めるのです。
そして、葉っぱが役割を終える過程で、葉の色の変化が起こります。

光合成活動の低下により、カロチノイドの黄色が目立つようになります。


寒くなり、葉が光合成を停止すると、光合成をつかさどるクロロフィル(葉緑素)が減っていきます。

もともと葉には、緑色のクロロフィルと、クロロフィルの光合成などをサポートする役割を持つカロチノイドが含まれています。
光合成活動の低下により、クロロフィルが分解され、緑色の色素が薄くなることで、カロチノイドの黄色が目立つようになります。
これが、葉が黄色くなる過程です。

佐野市から送られたスズカケの木も黄色に色づいています。

次に黄色から赤への変化は、赤い色素を持つアントシアニンが新しく作られることによって起こります。

アントシアニンが増える仕組みについては、諸説あるようですが、その一説をご紹介します。

急激に気温が低くなる(最低気温が5〜8℃くらい)と、光を受けてエネルギーに変換する働きと、そのエネルギーを使って養分をつくる働きの連係プレーのバランスが崩れてきます。

強い冷え込みが赤い色づきを作ります


そうすると、葉はそのバランスを保つために、赤い色素のアントシアニンを形成し、落葉ぎりぎりまで光合成を続けようとします。

つまり、強い冷え込みが赤い色づきを作っているのです。

紅葉には、もう一段の冷え込みを必要としています。

過去のもっともきれいな時期のブログを紹介します

玄関も紅葉しました 司馬遼太郎記念館 | きままな旅人

日影で遅れていた紅葉、やっと見頃を迎えました。

企画展について

いま、記念館では企画展「空海の風景」が開催されています。

『空海の風景』(くうかいのふうけい)は、司馬遼太郎の歴史小説。
平安時代初期に密教を独自に体系化し、真言宗の開祖となった空海を扱った作品である。
第三十二回(日本芸術院賞:昭和50年度)芸術院恩賜賞文芸部門受賞作。


空海の風景 上下巻セット (中公文庫)


司馬は本作で空海を「日本史上初めての普遍的天才」と評する。

ここでいう「普遍的」とは国境・民族の垣根を超えて通用する人物という意味であり、土俗の呪術として多分に雑多な状態にあった密教を破綻のない体系として新たにまとめ上げ、本場の天竺・唐(インド・中国本土)にもなかった鮮やかな思想体系を築き上げたこの空海の出現によって、日本史上初めてそうした「人類的存在」を得ることができたと評している。

題名の『空海の風景』とは、空海の生きた時代がはるかに遠い古代であるため現存する史料が乏しく空海の人物に肉薄することが甚だ困難であり、せめて彼が存在した時代の彼にまつわる風景を想像することによって、朧げながらもそこに空海の人物像が浮かぶことを期待して執筆されたことにちなむものである。

司馬夫人の福田みどりによると本作は生前の司馬が最も気に入っていた作品で、サイン本を献本する際にも必ず本作を用いたほどであり、そのため冨士霊園の「文學者之墓」(日本文藝家協会会員の共同墓)にも本作を埋葬したという。


「空海」を名乗るきっかけになった修行の地「御厨人窟(みくろど)」
ここ室戸岬は空海が厳しい修行を行い、悟りをひらいたとされる重要な地です。

修行時に洞窟に居住していたといわれ、それが御厨人窟で、この洞窟から外を見ると「空」と「海」のみの風景だったことが、「空海」と名乗るきっかけになったそうです。

また、修行を行っていた「神明窟(しんめいくつ)」では、難行の最中に明星が口に飛び込み、この時に悟りをひらいた伝えられています。
弘法大師空海が唐から帰国して初めて護摩を焚いた 最教寺 | きままな旅人

最教寺本堂

「鉧押し(けらおし)」によって直接製錬された鋼が敷地の隅に置いてある。


日本の古式製鉄法で作られる鋼の一種。

たたら製鉄の一方法である「鉧押し(けらおし)」によって直接製錬された鋼が敷地の隅に置いてある。

特に炭素含有量の少ない良質のものを、日本刀の製作には欠かせない最上質のものとして、玉鋼としている。
時代によって定義や等級分けが異なり、「玉鋼」も明治期以降の呼び方である。


街道をゆく 7 甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみちほか

司馬遼太郎の『街道をゆく』が、読みやすい新組みに生まれ変わって再登場。
全43巻、毎月4冊同時刊行。甲賀、伊賀、大和、淡路島、そして山陰の砂鉄のみちへ──。
歴史の裏舞台で生き、そして支えた、かなしいまでに律義な、日本の職業人、とりわけ物つくり技術者の足跡と、そのありようを語る。

「砂鉄のみち」をたどる――司馬遼太郎『街道をゆく』より – Ⅲ 物語の世界に見るたたら製鉄 – 鉄の道文化圏

昭和50年(1975)1月6日から8日にかけて、司馬氏は日本に古くからある製鉄法・たたら製鉄ゆかりの地を求めて、出雲(現在の島根県東部)から吉備きび(現在の岡山県から広島県東部)までを旅します。

たたら製鉄の原料は鉄鉱石でなく、砂鉄です。
砂鉄を「ここ数年の屈託である」と司馬氏は語っています。
元来日本は東アジアにおける鉄の後進国で、鉄生産が盛んになるのは平安中期です。
これ以降、日本人の中に欲望と好奇心という猛々しい心が育ち、ひいては農業や商品経済の発展につながったのではないか、そう推察した司馬氏は砂鉄を通じて東アジアの本体のようなものの一端がのぞけないかと考え、今回の旅に至るのです。

さぁ司馬遼太郎の世界へ


アマゾンで司馬遼太郎の本を買う

司馬遼太郎関連の記事

司馬遼太郎記念館へのアクセス

■近鉄奈良線「八戸ノ里駅」下車 徒歩約8分

■近鉄奈良線「河内小阪駅」下車 徒歩約12分