「安宅コレクション」の寄贈をベースに設立
当館は、大阪に本社があった総合商社 安宅産業株式会社が収集した、中国陶磁・韓国陶磁を中核とした「安宅コレクション」を住友グループから寄贈されたことを記念して、大阪市が設立した美術館です。
昭和57年(1982)11月に開館し、およそ2年間のエントランスホール等の増築改修工事を終えて、令和6年(2024)4月12日(金)、リニューアルオープンいたしました。
窓の外は堂島川を見渡せる。
2階以上が展示室になっている。
平成8年(1996)から3回にわたって、在日韓国人である李秉昌(イ・ビョンチャン)博士から、韓国陶磁などの作品群と韓国陶磁の研究基金に資する土地家屋をご寄贈・ご寄附賜りました。
安宅・李秉昌の2大コレクションのほかにも、多くの方々から近現代の作品を含む様々な分野の陶磁作品やコレクションの寄贈を受け、一方で日本陶磁などの購入をすすめるなど、所蔵品の一層の充実を図っており、令和6年3月現在でその総数は5,732件(国宝2件、重要文化財13件、重要美術品9件)となりました。
李秉昌博士の作品群のご寄贈と土地家屋のご寄附から20年ほどが経過したところで土地を処分することとなり、韓国陶磁に関する研究費を確保した上で、その売却益と住友グループからの残余金を合わせて、エントランスの増築工事費に充当。
新しいエントランスホールは、美術館の魅力向上を図ることを目的に、堅牢な雰囲気の建物イメージを多くの市民や利用者の皆様に親しまれて入館しやすいものとなるように改修し、明るい中之島公園との一体感や開放的な空間イメージを心掛けることといたしました。
居心地のよさや展示環境が優れた美術館であり続けることが、長く美術館活動を維持継承していく大切な要素であると考えています。
当館の立地する中之島は大川に形成された中洲で、17世紀の初めに豪商の淀屋常安が開発して以来、諸藩の蔵屋敷が立ち並び全国からの物資が集積する経済の中心地でした。
当時の中之島の東端は現在の大阪市中央公会堂の地点に相当し、それ以東の土地は、大川の運ぶ土砂の堆積や後世の開発によって造成されたものです。
現在の当館の場所には、料理旅館の自由亭が大川下流の川口居留地から支店を出し、1895(明治28)年には大阪ホテルと改称、翌年煉瓦造りの洋風ホテルとなりました。
1905(明治38)年には建物の東部分を在阪有力銀行の協議会である大阪銀行集会所が買収して事務所を開設します。
以降、幾度かの火災にみまわれ、大阪ホテルは1924(大正13)年に中之島から撤退しました。
大阪銀行集会所は1922(大正11)年に建物を改築し、1966(昭和41)年までこの地にありましたが、老朽化による建替えを機に他所へ移転しています。
その後15年以上が経過して設立されたのが、東洋陶磁美術館です。
油滴天目 茶碗
天目は黒釉の碗という意味にも使われていますが、この名称は中国の浙江省北部の天目山に由来しているといわれます。
ただし油滴天目は福建省にある建窯で焼かれたもので「建盞(けんさん)」とも呼ばれています。
水面に浮かぶ油の滴のようにみえる金・銀・紺に輝く斑点から油滴と呼ばれています。
油滴は釉薬に含まれる鉄分が釉の表面で結晶したものです。
口縁部に施された金覆輪は、口縁部を補強するためのものですが、見た目にもアクセントになっています。
本作は鎌倉時代以降に日本にもたらされ、関白豊臣秀次が所持し、のち西本願寺、京都三井家、若狭酒井家に伝来しました。
南宋時代の漆の天目台3点が添えられています。
加彩 婦女俑(かさい ふじょよう)
盛唐の開元年間(713-741)から天宝年間(742-756)頃になると、墓の壁画や副葬品である俑などに表された女性像は、それまでの細身のスタイルからふっくらした豊満なスタイルへと変化しました。
少女のようなあどけなさのなかにも凛(りん)とした気品を感じさせます。
左手には本来小鳥がとまっていたらしく、そのさえずりに耳を傾けるように首をややかしげたしぐさが、何ともチャーミングです。
冬の日暮れは速い、うっとりと見とれているうちに冬の短い日暮れは待ってくれません。
アクセス
・京阪中之島線「なにわ橋」駅下車すぐ
・地下鉄御堂筋線・京阪本線「淀屋橋」、
・地下鉄堺筋線・京阪本線「北浜」各駅から約400m