戦国時代に山陰の覇者尼子氏が本拠を構え、170年間の尼子氏六代の盛衰の舞台となった
月山富田城は月山(標高197m)に営まれる。
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月山富田城全景模型。
南東以外の三方は急峻な斜面であり、北側を正面とし、山麓部から山頂部へ郭を連ねる。
尼子氏は中国地方の覇権を巡って周辺諸国と争い尼子経久の時期に出雲に基盤を造り上げ、嫡孫尼子晴久の代には山陰・山陽八ヶ国守護の大大名となった。
天然の地形を利用した、最も難攻不落の要塞城といわれ「天空の城」とも呼ばれていた。その後、城を巡っても度々攻防戦が行われたが、最終的に尼子氏は毛利氏によって滅ぼされ、城も毛利領となった。
1600年(慶長5年)以降、堀尾氏が城主となるが、1611年(慶長16年)、堀尾忠晴が松江城に移り廃城となった。
それまでは、山陰の首城たる地位を失わなかった。
1934年(昭和9年)、国の史跡に指定された。
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進入路は、北麓の菅谷口(すがたにぐち)からの大手道(おおてみち)、富田橋を渡った正面の御子守口(おこもりぐち)からの搦手道(からめてみち)、南麓の塩谷口(しおだにぐち)からの裏手道(うらてみち)の3か所がある。
これらの全ての登り口には城門を構え、門の外には深い堀がめぐらされ、そこから飯梨川までが城の外郭となっていた。
すべての進入路は山腹の山中御殿に通じ、急峻な一本道「七曲り」で、詰の城である山頂部と結ぶ。
今回は正面の御子守口をとる。
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大手門跡にかかる。
大手道、搦手道、裏手道が合流する山中御殿平の入口に位置する。
高さ5m、幅15mの大手門は、押し寄せる敵を押し返したと伝わるが、崩落して現存しない。
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軍用大井戸の説明を受ける
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この大石垣の下には径2m、深さ3mの軍用大井戸があり、現在でも水が湧いている。
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山中御殿跡
月山富田城中腹に位置する御殿跡で、「さんちゅうごてん」と呼びます。
ただの御殿跡ではなく、山麓から山頂にある本丸に行くためには、どの道を経由してもここに至るため、重要な防衛ラインでした。
上下2段に分かれており、南側上段に城主の館、北側下段に付属の館があったと伝わる。発掘調査によって建物の基礎とみられる石列が確認されたが、時代は特定されていない。
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山中御殿の最奥の南端の正面石段
後世の積み直しと思われますが、いい雰囲気です。
この石段を登って、ここから主郭部に登ることになります。
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堀尾河内守・掃部父子を供養する親子観音。
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七曲りにさしかかる。
山中御殿平から山頂部へ続く道。
かなり急峻で、曲がりくねった通路。
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山吹井戸跡
山の中から吹き出す井戸があることからその名がつけられたという「山吹井戸」があると案内があります。
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このような登りが約20分続きます。
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三の丸から二の丸を目指す。
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二の丸にたどり着く。
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二の丸跡。
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二の丸
三の丸に続き、遠くに中海、さらに日本海を望むことができる。
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本丸跡に着いた。
まだ紅葉が残っています。
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ここは行きつめたところにあるので、別名「甲(つめ)の丸」ともいう。
散りモミジの紅い絨毯を踏めしめて進む。
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本丸には、山中鹿介幸盛記念碑がひっそりと立っています。
この塔、どう見ても二つに割れてしまっています。
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本丸跡。
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勝日高守神社
尼子氏時代は城内の守り神でした。
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菅谷口門跡。
元就の調略により、経久の子・晴久は、尼子を支えた新宮党の尼子国久を殺害し、尼子最強の軍団を滅ぼしてしまい、ここに尼子氏の衰運がはじまったが、尼子国久はここへ向かって登城する途中に暗殺された。
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山中御殿跡から本丸を望む
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花ノ壇へ向かいます。
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花ノ壇(宗松寺平(そうじょうじなり))
大手道と搦手道の間、山中御殿平の正面、一段下に位置する。
かつて、多くの花が植えられていたことからこの名がついたといわれる。
発掘調査をもとに主屋と侍所が復元されている。
花の壇は敵の侵入を監視できることや、山中御殿(さんちゅうごてん)との連絡が容易なことから、指導力のある武将が暮らしていたと考えられている。
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太鼓壇に建つ山中鹿介幸盛像
鹿介は尼子氏滅亡後も主家再興を願い、「願わくは我に七難八苦を与えたまえ」と、三日月に願ったが、最終的には毛利によって首をはねられる。
この銅像がある曲輪は、時と戦を知らせる大太鼓があったことから「太鼓壇」という名称になっています。
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安来市商工会 かなったら尼子神社に返納
戦国大名・尼子氏の再興を目指した武将・山中鹿介の不撓(ふとう)不屈の精神に あやかろうと、安来市商工会が、願掛け札「祈月札(きづきふだ)」を考案し、販売し始 めた。
三日月の形をした木札で、尼子氏の拠点だった月山富田城跡(安来市広瀬町) で祈願して、困難に立ち向かう勇気や、負けない心を授かってもらう。地域の新たな 名物になるか。
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千畳平にある尼子神社。
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尼子興久墓
道の駅の裏手に尼子興久の墓があります。
「興久は経久の三男である。
原手郡七百貫の領地がもらわれなかった為に、天文元年八月父にそむき、敗れて妻の父備後冑山城主山内大和守直通にたよったが、天文三年自殺した。年三十八歳であった。」とあります。
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富田川河床遺跡は、戦国大名尼子氏の居城月山富田城の城下町遺跡で、寛文6年(1666年)に富田川の大洪水によって水没しました。
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本日のお昼は足立美術館横の「どじょう亭」です。
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レジを手伝っていた「ドジョウすくい」の女の子が・・・カメラを向けると、ハイポーズ。
かわいいっ!!
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往路では雨で見えなかった大山、雲がかかっていますが見えています
尼子盛衰記
■鉄壁の牙城 月山富田城
尼子氏歴代が本城とし、山陰・山陽制覇の拠点となった月山富田城は、その規模と難攻不落、戦国時代屈指の要害。
大内義隆が攻め、毛利元就が攻めたが、力攻めでは落とすことが出来ず、元就との戦いでも結局は兵糧攻めの末に尼子氏が降伏したという事実も記されています。
月山富田城は、出雲国能義郡広瀬に在った山城。富田城が本来の呼称で、月山城と称するのは雅名。
飯梨川流域平坦部の頂点に位置する勝目山(192m)の上にあり、北側と南西部を深い谷で隔てられた天然の要害でありました。
■毛利の来襲と尼子氏の没落
代々に渡り尼子の勢力を支え続けましたが、永禄八年(1565)四月、尾小寺口・塩谷口・菅谷口の三面より侵攻を試みた毛利軍の総攻撃により、ついに危機が訪れます。
尼子氏はよく防戦し、一旦は毛利勢を押し返しましたが、元就は包囲作戦へと方向転換、翌九年には城中食糧が欠乏し、士気阻喪して投降・自殺者が続出、同年十一月二十一日、ついに尼子義久は毛利氏に降伏して城を明け渡したのであります。
ここに経久以来、山陰・山陽に威勢をはった尼子氏は没落。富田城は毛利氏の手に帰したのでした。
■尼子氏再興戦
毛利氏の軍門に降り、戦国大名としてその歴史に幕を閉じた尼子軍。
籠城の将兵は元就から「武士の亀鏡」とほめられ、それぞれが思い思いに四散するも、河副久盛・立原久綱・山中鹿介・三刀屋蔵人・森脇東市正ら数十人は、尼子三兄弟を杵築まで見送ることが許されたため、そこで主従決別の盃を交します。
これが主君尼子義久と尼子家臣らとの永訣であり、そして三兄弟は安芸に護送、鹿介らは望みを将来にかけ、故国出雲をあとにします。
主家没落後、京都に上っていた山中鹿介幸盛、立原源太兵衛尉久綱らは、東福寺にいた新宮党の遺子を還俗させ、「尼子孫四郎勝久」と名乗らせ主将に迎え、永禄十二年(1569)六月、島根半島千酌湾に入り、小競り合いののち上陸、忠山に陣を据えました。
勝久の周囲に集まった旧臣は、二百余名。
そして尼子再興の機を耳にして集まった面々としては、森脇東市正久仍、目賀田新兵衛尉幸宣、同幸定、河副美作守久盛、多賀兵庫助高信、屋葺右兵衛尉幸堅など約三千人で、その多くは永禄九年の富田開城まで見届けた人々でありました。
尼子軍は新山城に本営を移し、故城の富田城を攻撃しましたが奪回できず、明けて元亀元年(1570)二月、迫り来る毛利軍二万五千を、七千百の兵でもって月山の近くの布部山=要害山に迎え撃ちました。
しかし毛利の大軍の前に大敗、尼子十勇士の一人横道兵庫助を失ったのです。
ついで、山中鹿介につぐ十勇士の大立物、秋上庵介が毛利に降り、さらに六月三日佐太の勝間城の戦に勝久の側近、三刀屋蔵人や十勇士に名をつらねる上田早苗介までもが討死してしまいました。
元亀二年三月、尼子方高瀬城主米原綱寛は毛利方に城を明け渡し、尼子の本陣新山城に退去。
六月十四日、毛利元就が居城の郡山城で七十五歳を一期として没し、それを機に鹿介らの反撃が予想されましたが成功せず、尼子主従は京都に走り、再興の第一戦は結局実を結びませんでした。
■尼子氏 完全滅亡
尼子牢人が京都に走ったころ、戦国の舞台は織田信長によって急展開をみせていました。山中鹿介らは、信長の援助を得て因幡国に進出、再興第二戦を画策します。
しかし、因幡から伯耆、そして出雲奪回への計画はもろくも崩れ、またも挫折、京都に舞い戻ることとなりました。
尼子再興の第三回戦の舞台は、ところを山陰から山陽に移し、播州上月城が主戦場となります。
すなわち、これは信長の先陣で中国征伐の総帥羽柴秀吉と、毛利の総帥毛利輝元を補佐する吉川元春・小早川隆景との一世一代の対決でありました。
毛利方の赤松氏が籠る上月城は秀吉軍によって落とされ、代わって尼子勝久・山中鹿介らが羽柴軍の最前線を担い上月城に入ります。
しかし上月城は、毛利三万の大軍に包囲されてしまい、秀吉は尼子主従を救おうとして、尼子旧臣で秀吉のもとにいた亀井茲矩(湯新十郎)を上月城中へ潜入させましたが、鹿介らはそれに応ぜず、結局上月城は毛利氏の攻撃の前に落城、勝久は自害してしまうのでした(享年26歳)。
ここに出雲の主大名・尼子氏は完全に滅亡したのです。
一方、山中鹿介は降人となり、捉えられ、西へ送られる途中、備中松山城のふもと、高梁川(甲部川)と成羽川の合流点にあたる合の渡において謀殺。
天正六年七月十七日、三十四歳の生涯に幕を閉じました。
結局鹿介が描いた尼子再興の野望は、2度、3度と試みるも、大軍率いた毛利軍などの手により、もろくも阻まれてしまうのでした。
安来市観光協会公式サイトより転載。
月山富田城へのアクセス、行き方歩き方
住所:安来市広瀬町富田
電話:0854-32-2767(安来市立歴史資料館)
JR山陰本線、安来駅下車、広瀬町行きバス25分「市立病院前」降車、徒歩10分で登山口。山頂まで25分。
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