安子(あんし)自身は若くして亡くなったが、安子所生の冷泉天皇・円融天皇の即位は九条流摂関家発展の元となり、やがて安子の甥道長を頂点とする全盛期へ至ることになる。
・・・・その源流をずっと遡るとき、恋がたきに茶碗を投げつけた安子という元気な女性に出会うのである。
陵墓は宇治陵(京都府宇治市木幡中村)にある。
村上天皇中宮安子火葬塚への参道。
慶頼王墓の道を北にしばらく進むと突き当りに村上天皇中宮安子火葬塚がある。
中宮安子は冷泉・円融天皇の生母で、女御から皇后となり、天皇には多くの女御・更衣がいたが後宮にゆるがぬ権力をもった。
歴史物語「大鏡」には、「源氏物語」とほぼ同じ時代の高貴な女人の嫉妬がノンフィクションとして描かれているが、こちらの嫉妬は、天下一品、陽性かつ攻撃的である。
なにしろ中宮ともあろうお方が、壁に穴をあけてライバルの女御を覗き見したあげくに、嫉妬の念を抑えきれず、覗き穴から茶碗のかけらを恋いがたきめがけて投げつけたのだから。
茶碗を投げつけたのは村上帝の中宮安子、投げつけられた相手は長い長い黒髪の美女、宣耀殿(せんようでん)の小一条女御芳子だった。
当寺の美女の絶対条件であるその緑なす黒髪は、当人が車に乗っても毛先がまだ母屋の柱のところにあったというほど、途方もない長さを誇っていた。
しかも少し下がり目なのがいっそう可愛らしく魅力的で、さらに「古今集」を全部諳んじているという賢い女性だったら、中宮の安子をさくおいて村上帝の寵愛を一身に受けていた。
あるときそんな二人が清涼殿で鉢合わせしてしまった。
清涼殿に起居する天皇のお召を受けて、安子は弘徽殿(こきでん)の、芳子は藤壺の、それぞれ上御局に入っていたのだが、たまたま両者の上御局が近接していたからたまらない。
安子はかねてうわさに聞く芳子を自分の目で見たくてたまらず、「いと安からず、えや静めがたくおはしましけん、中へだての壁に穴をあけて、のぞかせ給ひけるに・・・・」というはしたない行動に出てしまった。
チラチラと穴から見え隠れする芳子の姿は想像以上に美しく、黒髪が部屋いっぱいに渦巻いて優雅なことこのうえない。
むらむらときた安子は思わず、「穴より通るばかりのかけらの割れして打たせ給へり」という挙にでた次第。
このとき芳子の部屋には村上帝もいたというから、あるいは仲の良いところを見せつけられたのかもしれない。
日ごろから安子を「いみじう怖じまうさせたまひ」、たいていのことは言うなりの村上帝であったが、さすがに腹に据えかねて、こんな女らしくない行為はきっと安子の三人の兄弟たち・・・藤原伊尹(これまさ)・兼通・兼家らがそそのかしたに違いないと、三人を直ちに謹慎処分にしてしまった。
ところがこれを聞いた安子が激怒、村上帝に自分の部屋に来るように何度もきつく催促する。
帝のほうは逃げ回るのだが、結局、もし行かなかったら「いとどこそむずからめ」と思っていやいやながら訪ねると、はたして安子から猛攻撃を受ける。
このときの安子の理屈がふるっている。
兄弟たちがたとえ大逆罪を犯したとしても、私に免じてお許しあるべきなのに、まして私のことでこんな処分をなさるなんて納得できません、ただちに謹慎の罪を解いてくださいと言い募ったのである。
はじめは抵抗していた帝もとうとう降参してしまうのだが、すぐ撤回しては外聞が悪いからいずれそのうちにと約束して逃げかかると、安子は帝の衣を掴んで離さず、いいえ、信用できません、今すぐここへ蔵人を呼んで即刻処分を取り消してくださいと聞かない。
とうとう帝は後宮に役人を呼びつけて宣旨を下すハメになったのだった
后女御を十人前後持ったといわれる村上帝だったが、あるとき安子のもとに出入りしている妹の登子を見かけて夢中になってしまった。
当時、登子は帝の兄にあたる重明親王の室だったが、帝は恋情抑えがたくなんとしても思いをとげたいと安子に打ち明けた。
この好色な申し出に対して、安子は「一、二度、知らず顔にて、ゆるし申させ給ひけり」と、ずいぶんさばけた態度をみせているのである。
むろん、安子が後宮のトップレディでありつづけるためには、彼女の人間的力量に加えて、後ろ盾となる生家の実力がものをいう。
安子の父は九条流・藤原師輔(もろすけ)である。
ついでに言えば、かの黒髪の美女芳子の父は小一条流・藤原師尹(もろまさ)で、師輔の同母弟にあたる。
だから安子と芳子は従姉妹同市なのである。
彼女たちの祖父、すなわち師輔や師尹の父の藤原忠平は、すでに前帝の朱雀時代から村上帝即位のころに関白太政大臣として、その四人の息子たち・・・実頼が右大臣、師輔が大納言、師氏と師尹が参議・・・とともに、廟堂の権力を占有していた。
この時期、忠平一族の競争相手はもはや他氏ではなく、父を同じくする兄弟だった。
いずれも権力へのもっとも確実な近道として、彼らは争って村上帝の後宮にその娘を入れて皇子の誕生を切望した。
しかし実頼の娘の述子は女御となってすぐ若死にしてしまう。
父の期待に応えたのは師輔の娘の安子で、彼女は憲平親王(後の冷泉天皇)、為平親王、守平親王(後の円融天皇)の男子のほかに四人の内親王を産んだ。
憲平親王は第一皇子をさしおいて生まれてすぐ東宮に立てられた。
いっほう師尹も娘の芳子におおいに期待した。
前に芳子が「古今集」を諳んじていると書いたが、村上帝がテスト・・・歌の初句を言っては後の句を芳子につけさせるという・・・を試みていると聞いて、師尹は正装、潔斎までして寺々の僧に誦経させ、娘がうまく答えられますようにと祈願している。
野心のためとはいえせつないような親心である。
この父の期待通りに村上帝の寵愛を得て、安子を異常な嫉妬に駆り立てた芳子だったが、彼女が産んだ永平親王は皇位にはつけなかった。
才女の母に似ないで、姿は美しいけれど「きわめたる痴れもの」であったと「大鏡」に書かれている。
安子が芳子に茶碗を投げつけた逸話はいつごろのことかはっきりしないけれど、だれにでも寛容で聡明な安子が、従姉妹の芳子にだけ異常なまでの嫉妬を抱いていたということは、その底流に実家・・・九条流と小一条流のライバル関係があったからだろう。
事件を師輔の死後のこととすれば、なおさら三人の兄弟たちの失脚は九条流一族の一大事である。
安子がまなじりをけっして帝に即刻処分の取り消しを迫ったのは、たんなるわがままではなく、一族の存亡がかかっていたからである。
こうして九条流一族のかなめにいた安子だったが、応和四年(964)に末娘の選子を出産した直後に急逝した。
頭のあがらなかった安子の死で解放されたはずなのに、村上帝は芳子を見ると安子のことを思い出すという理由で、以後、あまり芳子を愛さなくなったという。
そういうと殊勝なようだが、いっぽうで村上帝は、すでに夫の重明親王と死別していた登子を、安子への気兼ねがなくなったいま、晴れて内侍に迎えて寵愛したというから勝手なものだ。
もっともなによりも九条流の繁栄を願っていた安子のことだから、妹への寵愛なら反対はしなかったかもしれない。
ただし登子には村上帝の子供は生まれなかった。
厚保四年(967)、小一条の女御芳子が没した年、安子の産んだ憲平親王が即位して冷泉天皇になった。
外祖父の師輔も生母の安子もすでに亡くなっていたが、天皇の伯父となった安子の兄弟たち・・・九条流一族の時代が到来した。
憲平親王が冷泉天皇になったとき、東宮にはつぎの弟の為平親王が予想されていたが、その后が源高明の娘だということから忌避されて、まだ若い守平親王が立太子した。
強引にことを運んだのは、安子の兄弟たち伊尹(これまさ)・兼通・兼家だった。
冷泉天皇の在位は短かったが、つづいて即位した円融天皇も安子の子だから、外戚としての九条流一族の地位に変わりない。
しかし以後、兄弟たちの間で権力の座を巡って骨肉の争いが繰り広げられる。
長兄の伊尹は父師輔が願って果たせなかった摂政の座についたが、これからというときに四十九歳の若さで急逝してしまった。
この長兄の死をきっかけに兼通・兼家の対立が激化する。
まず権力の座を手に入れたのは兼通である。
この兼通は弟の兼家とひどく仲が悪かった。
有能な兼家に押され気味で出世も弟におくれをとっいてたのだが、伊尹が死ぬと大方の予測を裏切り、権中納言兼通が大納言兼家を飛ばして関白に就任した。
円融帝の覚えのよくない兼通が、関白位を手に入れるにあたって切り札としたのが「安子の書付」だった。
兼通は村上帝在位のときに妹の安子に頼み込んで、「関白は次第のままにさせたまえ」すなわち「関白就任は兄弟の順に」という意味のことをカナで書いてもらい、そのお墨付きをお守りのように後生大事に首にかけて持ち歩いていたのだった。
カナで書いてもらったのは、将来、幼い天皇に読んでもらう時のための用心である。
亡き母の筆跡を見せられては、円融帝も逆らえない。
しぶしぶながら兼通の関白就任を認めてしまったという。
このためしばらく弟の兼家一族には不遇の時代がつづく。
兼通は関白位を弟兼家ではなく強引に従兄の頼忠に譲って、兼家への憎悪をむき出しにしながら死ぬ。
しかし、結局、九条流藤原家の三番手の兼家が権謀術数の限りを尽くして権力を手中におさめ、息子たちにその栄華を伝えた。
その息子の一人が「この世おばわが世とぞ思う・・・」と藤原氏の全盛を謳歌した道長である。
その源流をずっと遡るとき、恋がたきに茶碗を投げつけた安子という元気な女性に出会うのである。