- 慶応4年1月11日(1868年2月4日)、神戸三宮神社前において、備前岡山藩兵と外国人水兵が衝突する事件が起こりました
- 前年の慶応3年12月、岡山藩は西宮警衛の朝命を受け、家老の池田伊勢、及び同じく家老の日置帯刀(へきたてわき)が2000の兵を率いて1月5日に出立しました
- 突如、建物から出てきたフランス人水兵2人が、行列の前を横切り始めます
 - 砲兵隊長の「鉄砲」という言葉だけでいきなり射撃命令となるのか、また一斉射撃の弾丸は悉く外国人の頭上高くを越えており、これは威嚇射撃を命じられていたと思われるからです。
 - 小競り合いの結果は、見習い水兵と別の外国人の2人が軽傷を負っただけで済みましたが、事件を重く見た列強側は6カ国の公使連名で政府にねじ込みました
 - 滝の切腹は2月9日夜、兵庫の永福寺で、内外検証人の面前で行なわれました
 - なお滝の切腹から6日後、堺において土佐藩士がフランス水兵と衝突する堺事件が起きることになります
 - 王政復古直後の攘夷事件。 1868年(明治1)2月15日,当日堺に入港したフランス軍艦の水兵が上陸し周辺住民に乱暴を働いたため、同地警備の土佐藩兵が襲撃し11名を殺傷した事件
 
 
 - 前年の慶応3年12月、岡山藩は西宮警衛の朝命を受け、家老の池田伊勢、及び同じく家老の日置帯刀(へきたてわき)が2000の兵を率いて1月5日に出立しました
 - 神戸事件の歴史的意義
 
慶応4年1月11日(1868年2月4日)、神戸三宮神社前において、備前岡山藩兵と外国人水兵が衝突する事件が起こりました
前年の慶応3年12月、岡山藩は西宮警衛の朝命を受け、家老の池田伊勢、及び同じく家老の日置帯刀(へきたてわき)が2000の兵を率いて1月5日に出立しました
1月11日昼過ぎ、藩兵の隊列が西国街道を三宮神社近くに差し掛かった時のこと。
開港したばかりの兵庫には、外国軍艦が碇泊し、多数の外国人が日本人(岡山藩)の隊列を見物しようと道沿いに集まっていました。
突如、建物から出てきたフランス人水兵2人が、行列の前を横切り始めます
これは当時の武士たちにすれば、許されざる無礼な行為でした。
砲兵隊長の滝は行列の前に出て、2人を制止しますが、彼らが強引に渡ろうとするため、やむなく手にしていた槍で腰に軽傷を負わせます。
負傷した水兵は逃げ出しますが、もう一人の水兵や周囲にいた水兵も拳銃を取り出したため、滝は隊列に注意を促すべく「鉄砲」と叫びます。
すると藩士たちは、発砲の号令と勘違いして一斉射撃を行なったといいます。
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が、これにはやや疑問を感じます。
砲兵隊長の「鉄砲」という言葉だけでいきなり射撃命令となるのか、また一斉射撃の弾丸は悉く外国人の頭上高くを越えており、これは威嚇射撃を命じられていたと思われるからです。
しかし弾丸がはるか頭上を越えていても、外国人は日本人が銃口を向けたと受け取りました。
見物の外国人の中にはイギリス公使パークスもおり、事態に激昂。
居留地守備の各国の兵士が集まってきて、銃撃戦となります。
しかし外国人を射殺してしまえばどうなるか、6年前の生麦事件と薩英戦争の顛末は滝たち備前藩士も知っていたのでしょう。
本格的な衝突はせずに、銃を収めました。
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小競り合いの結果は、見習い水兵と別の外国人の2人が軽傷を負っただけで済みましたが、事件を重く見た列強側は6カ国の公使連名で政府にねじ込みました
「死者が出なかったのは神の恩寵であり、殺意が明らかである以上、発砲を命じた士官の死罪を求め」たのです。
これを受けて政府は2月2日、「砲兵隊長の滝善三郎の死罪、隊の責任者である日置帯刀の謹慎」を命じました。
本来であれば、日置が責任を取るべき立場であったのかもしれませんが、一説に、藩が日置を失うことを惜しみ、滝に因果を含めたともいわれます。
また藩主・池田茂政が、滝に対し「馬前の討死に勝る忠臣」と称え、「国家のため、藩のため、帯刀のために頼む」と声をかけたともいわれます。
これが事実であれば、滝は割り切れない思いはあるにせよ、武士の面目だけは保ったのかもしれません。
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三宮神社境内:事件の記念碑と当時の大砲の同型展示あり
滝の切腹は2月9日夜、兵庫の永福寺で、内外検証人の面前で行なわれました
政府側からは伊藤俊輔(博文)、中島作太郎(信行)、列強側は米英仏蘭伊普の士官、公使館書記が参集しています。
アーネスト・サトウの『一外交官の見た明治維新』には次のように記されています。
「滝は仏壇の前の赤い毛氈の上に座ったが、きわめて平静で前方へ倒れ伏すのに都合の良い位置を選んだ。
白木の台に乗せられた短刀を受け取るや滝は、やや乱れた声ではあったが “二月四日神戸で逃げんとする外国人に対し不法にも発砲を命じたのは自分だ。
その罪で切腹するから見届けてほしい” と述べ、できるだけ深く刺して右のわき腹までぐいと引いた」
滝善三郎、享年32。
国許に妻と4歳の長男、2歳の長女を残しての最期でした。
滝はその一命をもって、神戸を列強の爪牙から守ったのです。
なお滝の切腹から6日後、堺において土佐藩士がフランス水兵と衝突する堺事件が起きることになります
堺散策
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堺事件, ルモンド・イリュストレ紙挿絵(1868)
王政復古直後の攘夷事件。 1868年(明治1)2月15日,当日堺に入港したフランス軍艦の水兵が上陸し周辺住民に乱暴を働いたため、同地警備の土佐藩兵が襲撃し11名を殺傷した事件
このころこうした事件が相次いだが、成立したばかりの新政府は外国と事をかまえることの不利を考えて、箕浦猪之吉(隊長)以下20名(うち9名は、フランス艦長の申し出により助命)の土佐藩士に切腹を命ずるなど、フランス側の要求のすべてを認めた。
神戸事件の歴史的意義
1868年(慶応4年)、神戸で発生した神戸事件は、明治新政府が直面した最初の外交危機であり、近代国家としての対応力が問われた象徴的な出来事です。
🕊️ 外交的意義
- 明治新政府が条約遵守と外国人保護の姿勢を示し、列強との信頼関係を築く契機となった。
 - 東久世通禧による勅使派遣と謝罪交渉は、近代外交のはじまりを象徴する。
 
🏯 武士道と近代国家のはざま
- 備前藩士・滝善三郎の切腹は、武士的責任の取り方として外国人に強い印象を与えた。
 - 法治国家への移行期における「名誉」と「責任」の表現として注目された。
 
🏙️ 神戸の都市形成
- 事件後、神戸港の治安強化と外国人居留地の整備が進み、国際都市としての基盤が築かれた。
 - 三宮神社周辺は、歴史の舞台として都市の記憶を今に伝える空間となった。
 
🧭 明治維新の試練
- 王政復古直後の新政府にとって、統治能力と外交手腕が問われた試金石となった。
 - 事件の収束は、国内外に対する新政府の統治意思を示す重要な一歩だった。
 
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