西鳥取漁港は、かつては波有手(ぼうで)浜と呼ばれていた歴史ある港です。
さわら、しらす、いかなご、タコなど季節毎に様々な魚が捕れるだけでなく、海苔や牡蠣が養殖されていて、用途毎に違った種類の漁船が浮かんでいます。
阪南市一帯は、古来より和泉国日根郡鳥取郷と呼ばれてきました。
この地名は930年代に編纂された『倭名類聚抄』に初めて見られます。
「鳥取」の地名については、それより200年以上も前に書かれた『日本書紀』に以下のような説話が記されています。
垂仁天皇の第一皇子である誉津別王は30歳になっても稚児のように泣き、ことばを発しませんでしたが、白鳥が空を飛ぶ様子をみて「あれはなにか」と初めて声をあげました。
天皇は喜び、臣下に「誰かこの鳥をつかまえてきてほしい」とおっしゃり、天湯河板挙(あめのゆかわたな)が「必ず捕まえて献上しましょう」と白鳥を追って出雲国で捕えました。
その後、誉津別王はこの白鳥をもてあそび、物を言うことができました。
この功により、天皇は天湯河板挙に鳥取造の姓を賜り、鳥取部を定めました。
『日本書紀』は説話的な色彩が濃いですが、これらの記述は古(いにしえ)の当地域と大和朝廷とのつながりを物語るものではないかと思われます。
また、『倭名類聚抄』には「鳥取」の地名が和泉国のほかに河内国、越中国、丹後国、因幡国、備前国、肥後国にもみられます。
荘園とは、奈良時代から室町時代末期(戦国時代)まで存在した私有地のことです。
その所有者の多くは、京都やその近辺の貴族・寺社、有力寺社で、土地とともに多くの農民を抱え、現地には荘官を置いて、経営に当たらせました。
阪南市域には、筥作(はこつくり)(箱造(はこつくり))荘(しょう)と鳥取(とっとり)荘(しょう)の2荘が存在していたことが資料で確認されています。
筥作庄は、賀茂別雷神社(京都市・上賀茂神社)の寿永3(1184)年文書に、源頼朝が武士の狼藉を禁じた賀茂別雷神社領42荘のうちの1つとしてその記載が見られます。
このことから、少なくとも平安時代末期に箱作一帯は上賀茂神社の領地であったようです。
一方鳥取庄は、荘園名として室町時代初期の観心寺(河内長野市)文書等にその記載がみられ、観心寺領であったと推測されています。
その後、室町時代に足利義満によって伊勢神宮に寄進されたことが、『建内記』という資料に記されており、伊勢神社領になったと考えられます。
江戸時代になると、いくつかの文書に「鳥取庄」の文字がみられますが、このころには既に荘園自体は崩壊しており、この「鳥取庄」は現在の箱作以南を除く阪南市域を示す用語として使われていたようです。
このように両荘園に関する資料は若干存在するものの、その範囲や成立の経緯、荘園内の村名、内部構造などの詳細については残念ながら明らかではありません。
「鳥取荘」は、現在も南海本線の駅名に「鳥取ノ荘」として残されています。
「勇夫善六の碑」
秀吉の小田原攻めの時、この村の善六という村人が多大な功績を残し戦死しました
その恩賞として村人達は税金を減じられ、永くその恩恵を受けたことにより、村の人々によって墓碑が建てられました。
西鳥取村は、大阪府泉南郡に属していた村。
現在の阪南市中部、南海本線鳥取ノ荘駅周辺にあたる。
1889年(明治22年)4月1日 – 町村制の施行により、日根郡波有手村、新村が合併して西鳥取村が発足。大字波有手に村役場を設置。
1896年(明治29年)4月1日 – 郡の統廃合により、所属郡が泉南郡に変更。
1956年(昭和31年)9月30日 – 泉南郡尾崎町・下荘村と合併して南海町が発足。同日西鳥取村廃止。
南海町発足時に大字波有手を鳥取、大字新を新町に改称。