りんくうタウンのまちなみは、多くの集客で賑わう近未来的な集客都市空間であるとして、大阪ミュージアム構想に登録されたほか、関西国際空港とともに「大阪まちなみ百景」にも選出されている。
りんくうタウンの海沿いに細長く広がる面積61.2ha(うち19.1haが開設)の海浜公園(現在は泉佐野市と田尻町域部分のみの開設だが、計画地域には泉南市区域もある)。
指定管理者である一般財団法人 大阪府公園協会が管理する、大阪府の施設である。
関西国際空港から飛び立つ飛行機の離着陸や関西国際空港連絡橋が見えるほか、遠くには明石海峡大橋や淡路島も望める。
西側に沈む夕陽などロケーションに優れており、時折コスプレイベント等やビデオ映像撮影にも使用されている。
また近年では、りんくうリレーマラソンやりんくう花火など、多数の集客が見込まれる地元イベントが開催されることも多い。
シーサイドパークを散策する人々。
泉佐野の地名の由来、中世以来の村の名称『佐野』に旧和泉国の国名を冠したもので、「狭い原野」という事から「狭野」というようになり、それが転じて「佐野」になったという言い伝えが残っている。
佐野村では室町時代から熊野街道筋の字市場村に定期市が立つようになった。
一方、沿岸部には対馬や五島列島方面まで漁に出るほどの大規模な船団が出現し、玉之浦納の反乱や文禄・慶長の役にも佐野村の漁民が登場する。
江戸時代には豪農の中から廻船業を営む者が現れるようになり、なかでも食野家(めしのけ)、唐金家(からかねけ)は井原西鶴の「日本永代蔵」にも登場するほどで、当時の面影を残す「いろは四十八蔵」の一部が今も残る。
また食野家が寄進した八角大梵鐘が三重県泰運寺に残されている。
食野・唐金らの活躍で巨万の富を得た佐野村は、和泉国では堺に次ぐ商業都市となり、人口も岸和田城下6町や貝塚寺内5町を上回るようになった。
なお、堺・岸和田・貝塚など計画的に形成された市街と異なり、佐野村の町場は自然発生的に形成され、迷路のような街路が古い家並みとともに現在もよく残っている。
「佐野町場迷宮都市」は撮影も終わっているのだが今一つまとめきれず未発表。
食野家(めしのけ)の全容ももう少しクリアにしたいと思っている。
再訪問が必要です。
以前に訪問した「慈眼院」も印象に残っている。
我が国 最小の塔 慈眼院の多宝塔
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熊野古道も歩きました。
17番 佐野王子(さのおうじ)、18番 籾井王子(もみいおうじ)などが記憶に残る。
四季の泉 – 円形噴水、夜間はライトアップされる。日没軌道をモチーフとしたデザイン。
LOVE RINKu(恋人の聖地)
シンボル緑地 四季の泉横にある【LOVE RINKu】
りんくうタウン駅改札正面の「りんくうまち処」で販売されているLOVE TAGに好きな文字を刻印してぶら下げることができます。
また、双眼望遠鏡で関西国際空港や淡路島を眺めたり、カメラスタンドを利用して記念撮影も可能です。
太鼓橋から見て、「四季の泉」は真西の方向にあって、春分、秋分の日にはここに太陽が沈みます。
少し右には「夏至の階段」があり、夏至の日はここに太陽が沈み、逆に左には「冬至の岩屋」があり、 冬至の日はここに沈みます。
「四季の泉」の3つの大きな輪は、「夏至」「春分、秋分」「冬至」の時の日周軌道、すなわち太陽の 軌道を示しており、中心の球が地球です。地球から出ているヤリのようなものは地軸です。
この地軸は 北の方向を指しており、北極星を差していることで確認できます。
また、この地球の角度がこの場所の経緯で34度41分です。
太鼓橋からの眺め、大阪湾全体が一望できる橋の上からの風景は迫力満点です!
その他の訪問地
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