阿曾津千軒を訪ねる旅、先ず西野隧道へ向かいます。
左手に竹生島を眺めながら快適な旅です。
「魞漁(えりりょう)」による仕掛けが見えています。
魞漁は障害物にぶつかるとそれに沿って泳ぐ魚の習性を利用し、湖岸から沖に向かって矢印型に網を設置。「つぼ」と呼ばれる行き止まりに誘導して捕まえます。
冬の琵琶湖の風物詩です。
西野水道は、西野の西山という山の麓に、琵琶湖へ向かって貫かれている高さ約2m、幅約1.5m、長さ約250mの排水用の岩穴です。
今から170年前、たびたび洪水に見舞われていた西野地区を、洪水から守るために、充満寺の第11世・恵荘上人の発起により行われた土木事業です。
能登、伊勢から石工を招き、実に6年の歳月と1275両をかけてノミだけで掘り抜かれた手堀りの岩穴です。
2代目 現在は琵琶湖側への連絡通路として使用されている。全長245m。
初代 西野恵荘が掘削した放水路。全長220m。滋賀県指定文化財(史跡)。
かつて余呉川は大雨の度に氾濫を起こし、流域の集落に大きな被害をもたらし続けていた。
特に、現在の長浜市高月町西野周辺はその集落の高低差ゆえ、氾濫の度に集落は浸水・飢饉に悩まされた。
その集落で育った僧の西野恵荘が、これを打開するには琵琶湖に放水路を作らなければならないと考え、1840年(天保11年)7月29日に掘削しはじめた。
工事は岩盤の固さ、資金、落石事故などが原因で難工事であったが、1845年(弘化2年)9月1日に完成した。
充満寺11代住職西野恵荘は、この洪水を何とかしようと西の山をくり抜いて、びわ湖へ排水を流す事を考えていました。
そこで恵荘と住民は彦根藩から「ずいどう(トンネル)」を掘る許可をもらい、1840年(天保11年)より工事をはじめました。
5年後の1845年(弘化2年)にずいどうが完成し、「西野水道(にしのすいどう)」と名付けました。
西野の人たちが、自ら生活を守ろうと行った工事は、江戸時代の民衆活動を伝える興味ある話とされています。
西野恵荘は、こうした工事を考え西野の人たちをまとめた人でした。
西野恵荘は71歳でなくなりますが、このとき彦根藩の井伊直弼は彼の功績をたたえ、 “上人”(※)の称号を送ったと言うことです。
湖北水鳥センターでしばしのお買い物タイム。
湿地のヨシ、琵琶湖とそれに連なる内湖の岸辺には、古代からヨシが大きな群落をつくり、現在でも180haを超えるヨシ帯が残され、わが国有数のヨシ産業が営まれている地域です。
ヨシは昔から葭簀(よしず)や葭戸、衝立(ついたて)などの加工品から葭葺き屋根などの生活用品、葭巻漁やタツベ漁など伝統漁の道具、家畜の餌や燃料など、さまざまな形で活用されてきました。
織田信長が安土城を築いた時代には、ヨシで年貢を納めた記録があるなど、ヨシは使い道のある有用な植物でした。
また、この地に生えるヨシの品質が優れていたこと、商人町である近江八幡に近接していたこと、水運で京・大阪に近くお茶などの文化と結びついていたことなどが影響し、ヨシ製品の製造販売が栄えたようです。
この地域の人々とヨシとは、暮らしと産業の両面によって、自然に共生を遂げてきたことが伝わります。
湖北水鳥センターの北側には尾上港や尾上温泉があります、今度ゆっくり訪れたいと思う。
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