春風や堤長うして家遠し 毛馬村


淀川神社

いい伝えによれば、淀川河口の海賊取り締まりのため配備された武士が、当時有名だった15の神社の神様を守護神としてまつったのが起こりで、名前も十五神社と呼ばれていました。

明治42年(1909)、毛馬村の氏神、八幡大神宮が櫻宮に、友渕村の氏神、十五神社が大宮神社に合祀されましたが、これによって心のよりどころを失った毛馬、友渕、大東3町の人たちの熱心な働きかけで昭和28年(1953)10
月、旧十五神社の神殿と境内をそのまま利用した形で復活。

現在の名で呼ばれるようになりました。

俳人・与謝蕪村は享保元年(1716)、毛馬村に生まれました。若き頃に江戸を出て、芭蕉の足跡をたどって東北を周遊。

その後、京に居を構え、大坂にも何度も立ち寄りますが、なぜか自分の生まれ故郷には一度も帰ろうとしませんでした。

新淀川開削で消えてしまった蕪村のふるさと・毛馬界隈を散策。

毛馬橋、名前に因んで馬の鞍の形をした親柱。

蕪村の生まれた毛馬村は淀川の左岸。

対岸は北長柄村で、両地点を毛馬渡しが結んでいました。

長さ190間(約365m)。
蕪村が門人に送っ手紙の中で「堤ニは往来の客あり」としたのは、この渡し舟に急ぐ人々の姿でした。

この下流には源八渡し、川崎渡しが続きます。

ここに初めて橋が架けられたのは大正3年(1914)。

地元の熱心な運動が実りました。

長さ155m、幅3.6mの木橋で、毛馬橋第1号です。

現在の姿になったのは昭和36年(1961)です。

蕪村公園

平成21年(2009)3月に開園したばかりの蕪村を顕彰する公園(約1ha)です。

「春風馬堤曲」に詠われている毛馬の堤を再現し、淀川原ののびやかな広がりのある風景が表現されています。

園内には、蕪村自筆の13句を刻んだ句碑が並べられています。

松尾芭蕉、小林一茶とともに近世俳諧史を彩った蕪村は、浪漫的、抒情的な俳風を築き、生涯で3000近い句を詠んでいます。

13句はその代表作ともいえ、多くは生まれ故郷、毛馬を詠んだ作品が連ねられています。

蕪村生誕地の石碑

江戸・天明期の俳壇革新者であり、南宋画の開拓者、俳画の創始者といえる与謝蕪村は享保元年(1716)、摂津国東成郡毛馬村(大阪市都島区毛馬町)に生まれました。

20歳のころには江戸にあり、夜半亭宋阿に師事し、俳諧を学びました。

寛保2年(1742)27歳のとき、師の死にあって江戸を去り、下総国結城(茨城県結城市)を拠点にあこがれていた松尾芭の足跡をたどって東北を周遊するなど、俳諧の道と画技を磨きました。

その後、丹後・与謝地方で4年余を過ごし、42歳で京都に居を構え、画業に専念します。
45歳のころ結婚。娘くのの誕生からしばらくして讃岐へと旅立ち、55歳で師を継ぎ、夜半亭二世に推戴されました。

このあたりから、「春風馬堤曲」「澱河歌(でんがか)」「老鶯児(ろうおうじ)」の三部作を刊行した62歳ごろが蕪村の絶頂期といえます。

天明3年(1783)12月、「しら梅に明る夜ばかりとなりにけり」の辞世句を残し、68歳でなくなりました。

墓は芭蕉庵のある京都市左京区一乗寺、金福(こんぷく)寺にあります。

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蕪村は碑の建立時に我も死して日に辺(ほとり)せむ枯尾花と詠み残していたので望み通り後丘の墓に納骨された。

毛馬洗堰、毛馬閘門

淀川開削を含む淀川改修工事で計画され、明治40年(1907)8月、普段の川の水を流すための「毛馬洗堰」と、水位が違う大川、新淀川間の船舶の通過をスムーズにする「毛馬閘門」とが完成しました。

閘門は沖野忠雄の指導で作られ、両岸はレンガ造り。

水路の前後に鉄製観音開きの制水扉が設置され、両岸からハンドルを回して開け閉めしました。

しかし、その後の大川しゅんせつ工事で水位が大きく下がり、淀川との水位差が広がって役に立たなくなったため、大正7年(1918)、この閘門下流に二つ目の閘門が作られました。

現在使用されている閘門は3代目で、昭和49年(1974)に完成しました。

旧毛馬洗堰と初代閘門は貴重な近代産業遺産として平成20年(2008)6月、国の重要文化財に指定されました。

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2013年10月に訪問、当時は閘門の中まで入れましたが今は入れません、貴重な記録です。

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アプローズの前には菜の花で埋まった一角があります。
そして蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」の句碑がありました。

新淀川

かつての淀川は、蕪村の故郷・毛馬村付近で中津川と分岐、南へ大きく湾曲していました。

その豊かな水量で農作物には恵まれたものの、一方でたびたび洪水に見舞われ、有史以来といわれる明治18年(1885)の大洪水、さらに22年、29年の洪水が大きな被害をもたらしました。

18年の洪水の惨禍を目の当たりにした東成郡榎本村放出(現在の大阪市鶴見区)生まれの大橋房太郎(1860~1935)が淀川治水事業に取り組み始め、その努力で明治29年(1896)には河川法が制定されるとともに、淀川改修経費が国会を通過。

オランダ人技師、デ・レーケが計画立案、内務省土木監督署の技師、沖野忠雄の指導のもと、新淀川開削を含む改修工事がスタートしました。

新淀川は毛馬付近から下流を、旧中津川の一部を利用する形で開削、大阪湾に直線的に注ぐようにし、旧川(現在の大川)には必要な水量を流す洗堰
と船舶航行のための閘門を設けるという大規模なもの。完成までに10年余を要しました。その後も改修は続けられ、戦後は洗堰部分に淀川大堰も建設されました。

残念なのは、新淀川工事で、淀川が南へ大きく湾曲する部分の左岸に位置した蕪村の故
郷・毛馬村の大半が水没してしまったことです。

蕪村生誕地の石碑のあたりから見下ろす北側がその地です。

大川(旧淀川)

もともとは淀川の本流でしたが、明治後期の淀川改修工事で毛馬の洗堰、閘門が作られた際、そこから下流の大阪湾に注ぐ旧淀川13.83kmを大川と呼ぶようになりました。

それぞれの時代の大阪の繁栄を担った河川で、現在は、中之島で堂島川、土佐堀川と分かれるなど、区間によってさまざまな通称で呼ばれています。

寝屋川と合流する地点のすぐ先は、江戸時代に京・伏見と大坂を往復した三十石船の大坂側のターミナル、八軒家浜船着場。

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熊野詣は城南宮(鳥羽離宮)を出立、舟で淀川を下り、ここ八軒屋浜に上陸、ここから陸路熊野を目指すことになります。

飛鳥時代には難波津、平安時代には渡辺津と呼ばれた要衝です。

弥次さん喜多さん、森の石松、幕末の志士たちまでが乗ったという三十石船(長さ約15m、幅1.9m、定員28人)は、昼夜、上下便あわせて毎日320便、約9000人が利用したといわれ、大変な賑わいでした。

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