春風に吹かれてワンドへno2

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初夏の心地よい風がほほを撫でていきます。

菅原城北大橋

大阪市北東部の豊里大橋と長柄橋の2橋が慢性的な渋滞を起こすため、その中間に都市計画道路豊里矢田線整備事業の一環として架橋された。

旭区側は城北公園内を跨いでいるため、城北公園通(大阪市道中津太子橋線)には接続しておらず城北筋と接続している。

淀川河川公園は淀川の河川敷を40地区に分け、両方の対岸を活かして作られている公園。

上流から下流に掛けて再生ゾーンと多目的ゾーンが点在している。

絶滅危惧種のイタセンパラ保全市民活動で有名な城北ワンドが近くに広がる地区で、太平洋戦争での空襲時の犠牲者を弔う千人塚がある。

旭区城北公園内、淀川の堤防の一角に建つ「千人つか」は、1980年(昭和50年)に後世正亮氏が建立している。

現地の碑文に拠ると『1945年(昭和20年)6月7日大阪を襲った大空襲の際、大阪市内で死者数万人を出したが、そのうち身元不明の人、千数百人の遺体を城北公園裏の淀川堤に集められ荼毘に付された。
 
このときの犠牲者の冥福を祈り、巷間の義人の東浦栄二郎氏が庭石に「千人つか」と刻み、現地に置いたが、爾来30有余年が過ぎ、この塚の謂れも忘れ去られてしまったので、ここに由来を刻し、この地下に眠る千数百人の霊の冥福を祈り、国家安泰と軍官専横苛政による国民塗炭の痛恨と犠牲の再現を永く阻止し、世界人類の和平を祈願する日本国民の総意を世に問う』とある。

1960年頃(昭和30年の中頃)まで、この「千人つか」が建てられている付近の階段は、機銃掃射を受けた痕も生々しく残っていたため、ここを通りかかる度に、命を落とした人々の無念さを思い遣ることが出来たが、現在ではすっかり整備され、憩いの場となっており、千人つかそのものにも関心を払う人も少なくなったようだが、碑文にもあるように多くの民間人の犠牲を出した戦争の悲惨さだけは風化させたくはない。

淀川橋梁 (おおさか東線)

本橋は城東貨物線の建設に伴い1929年(昭和4年)に架橋された。

架橋当時より複線幅で建設されていたが、当面の輸送量にかんがみて下流側のみ線路が敷設され単線で運行されていた。

余った上流側のスペースは大阪市が借り受けて市道扱いの赤川仮橋(あかがわかりばし)と呼ばれる木造の歩道部分を設置し[、2013年(平成25年)10月31日まで鉄道道路併用橋として使用されていた。

淀川橋梁は第二次世界大戦の戦火を耐え抜き、赤川仮橋は地域住民の生活道路となっていた。

橋脚の一部には第二次大戦中P-51マスタングの機銃掃射よる弾痕の痕跡などが残されている他、たもと付近にはB-29の空襲による被弾によって発生したクレーターなどが池となった通称爆弾池がワンドの一部となって残されている。

ありがとう赤川鉄橋
昭和4年から85年間、地域住民から長らく愛されてきた「赤川仮橋」が10月31日2 … 続きを読む →


赤川廃寺、日吉神社

淀川大改修によって川床となった場所に、1225~1230年頃、赤川寺(せきせんじ 別名:大金剛院)と呼ばれる寺院があったと推定されています。

赤川寺の境内には山王社または山王権現と呼ばれた神社があり、日吉大社の分霊を祭神としていました。

赤川寺は大坂夏の陣の戦火によって炎上して廃寺となりましたが、神社は類焼しませんでした。

その後、明治32年(1899)に淀川改良工事によって境内地を200m南へ移し、明治40年(1907)に山王社は日吉神社と改称しました。

大阪工業大学エントランス

大正11年(1922)、関西工学専修学校(現大阪工業大学)の初代校長兼理事長に就いた建築家の片岡安(かたおか やすし)は、東京帝国大学卒業後、日本銀行技師を経て、明治38年(1905)に辰野金吾と辰野片岡建築事務所を開設しました。

同事務所は、大阪市中央公会堂を設計することとなり、大正2年(1913)から建設を着工し、大正7年(1918)に完成させました。

大阪工業大学では、同大学開校70周年を記念して、大阪市中央公会堂を模したメモリアルゲートを建設しました。

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