昭和48年に週刊朝日に連載された司馬遼太郎さんの「街道をゆく」「甲賀と伊賀のみち」 の中で「路傍から白い煙が湧き出てきた。炭を焼いているのである。
私は「梟の城」を書いたころのこの坂の情景をおもいだした。
下柘植次郎左衛門という人物がこの坂をのぼって行ったはずでった。
ちょうどその情景の中にいるこの老人をみていると、われながら滑稽だがはじめて遭ったような気がしなくなってきた。
老人は初老の男とふたりで、ござにすわっている。どちらも無口で「わしは稲本や」と老人がいい、わしは福森や、と初老のひとがいった。」
とある炭窯跡です。
街道をゆく-甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみちほか-朝日文庫-司馬-遼太郎
伊賀上野城を出発点にした司馬遼太郎は、自身の小説『梟の城』の最初の場面の舞台・御斎峠を目指す。途中、西高倉の集落で炭焼きをする老人ら2人に出会い、老人との会話から現代日本の忙しさをかえりみる。
付近にあるはずの廃補陀落寺跡を探すが見つからず、御斎峠を越えて甲賀へ入った司馬さんは、中世の近江の守護・六角高頼の危機を救った甲賀衆を思う。
多羅尾を過ぎ、信楽に至ると、この地を含め複数の地に遷都を繰り返した聖武天皇という人物を考察する。
御斎峠を目指す
案内板の内容。
ここ大杉谷は、昔より生活に深くかかわりのある処です。
東大寺造営の折、用材がこの奥より搬出されました。
下って鎌倉時代には、高倉社の別当補陀落寺建立され参拝者の道しるべとして奈良街道より「町石」が置かれ、熊野信仰が引越してきた感があると伝えています。
補陀落滝も「那智・不動・首落の滝」などの呼び名があり源義経がこの滝の名を忌み御斎峠越を避けたと源平盛衰記に記されています。
御斎峠展望台へ、80段あまりの階段をあえぎながら登る。
まさに絶景、伊賀盆地が一望。
伊賀の市街地、伊賀上野城も見える。
御斎峠は「音聞峠」と書くものもあり、「おとき」と濁らずに読ませるものもある。
標高は630m、滋賀・三重両県境に位置し、その名は鎌倉時代に臨済禅の高僧夢窓国師が伊賀三田の空鉢山寺に来られたときに、村人がここで斎(とき=食事の接待)をあげたことに由来するとのこと。
また、小説などでは、服部半蔵がここへ先行して狼煙を上げて忍びの者を集め、家康一行がここへ到着したときには、伊賀・甲賀忍者三百名が勢揃いしていたという。
伊賀国への歴史的交通路であり、壬申(じんしん)の乱(672年)時には大海人(おおあまの)皇子が伊賀から多羅尾にはいっている。
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