通称寺名をくろ谷さん(くろだにさん)と呼ぶ。
知恩院とならぶ格式を誇る浄土宗の七大本山の一つであり、また京都四箇本山(他に知恩院、知恩寺、清浄華院)の一つである。
まさに城構、高麗門。
徳川家康は幕府を盤石なものにする為に特に京都には力を注いだ、直轄地として二条城を作り所司代を置き、何かある時には軍隊が配置できるように黒谷と知恩院をそれとわからないように城構えとしているのである。
黒谷に大軍が一度に入ってこられないように南には小門しかなく、西側には立派な高麗門が城門のように建てられた。
小高い岡になっている黒谷は自然の要塞になっており、特に西からやってくる敵に対しては大山崎(天王山)、淀川のあたりまで見渡せる。
因みに山内の西翁院にある淀看みの茶席(重文)は、茶席より淀川の帆船を見ることが出来たのでこの名が付けられた。
また、黒谷古地図によると浪華城遥よう矚しょくとあり大坂城まで見えたという。
金戒光明寺の威風堂々たる山門は、1400年頃の創建で、応仁の乱で焼失後、徳川幕府の命で、1860年(萬延元年)に再建されたもの。
高さは約23mで、普段は非公開の楼上からは京都市内を一望できます。
京都守護職として会津藩がここに本拠を構えたのも、楼上からの市中監視が目的のひとつでした。
やっと本堂が見えてきました、ここまでかなりののぼり。
山門の先を進んでいると左手に「せいしまるさま」と書かれた銅像。
漢字で書くと「勢至丸」と言うこの人物は、開祖である法然上人のことです。
勢至丸は幼名です。
承安5年(1175年)春、浄土宗の開宗を決めた法然が比叡山の黒谷を下った。
岡を歩くと、大きな石があり、法然はそこに腰掛けた。
すると、その石から紫の雲が立ち上り、大空を覆い、西の空には、金色の光が放たれた。
そこで法然は、うたたねをすると夢の中で紫雲がたなびき、下半身がまるで仏のように金色に輝く善導が表れ、対面を果たした(二祖対面)。
これにより、法然はますます浄土宗開宗の意思を強固にした。
こうして法然はこの地に草庵を結んだ。
これがこの寺の始まりであるとされる。
ここは、「白川の禅房」と呼ばれ、もとは比叡山黒谷の所領で、叡空入滅の時、黒谷の本房と岡崎白川の本房を法然に与えた。
そのため、比叡山の黒谷を元黒谷、岡崎の地を新黒谷と呼んだ。
法然は、後に信空に黒谷の本房と白川の本房を与え、白川上人信空はこの地に住み、白川門徒の拠点となった。
その後、岡崎の地を新黒谷とは呼ばず、黒谷(くろだに)と呼ぶようになる。
なお、比叡山では、大津市坂本の黒谷を現在も「黒谷」と呼ぶ。
振り返って山門を見る、かなりの高度。
阿弥陀堂 – 慶長10年(1612年)豊臣秀頼が再建した。
御影堂(みえいどう) – 大殿(だいでん)とも言う。
法然75歳時の肖像(坐像)を安置。
昭和9年、火災により焼失1944年(昭和19年)に再建。
中山文殊と吉備観音を安置する。
梅の花がきれいです。
こちらも梅。
春日局の供養塔
春日局という名は、朝廷から賜ったもので、本名はお福といいます。
お福は、明智光秀に仕えた斎藤利三の娘として誕生しました。
明智光秀が山崎の戦いで豊臣秀吉に敗れると斎藤利三は処刑されます。
しかし、お福は女性だったため、捕えられることはありませんでした。
その後は、稲葉正成に嫁ぎ、慶長9年(1604年)には徳川家光の乳母となります。
三代将軍家光の実母は「ふく」であったとする説。
後に徳川家康は光秀とともに信長を討つ黙契があったと、光秀の血を引くおふく(後の春日局)に三代将軍光秀を生ませ信長の血脈を絶ったとの説がある。
大阪と京を結んだ水陸の要所 淀城
淀は「与渡津」(淀の港の意)と呼ばれ、古代には諸国からの貢納物や西日本から都に運 … 続きを読む →
江-崇源院供養塔
崇源院は、浅井長政と織田信長の妹のお市の方との間に生まれた女性で、お江(おごう)の名でも知られています。
姉には、豊臣秀吉の側室となった淀殿と京極高次に嫁いだお初がいます。
3人を総称して浅井三姉妹とも呼ばれていますね。
お江は、後に徳川秀忠に嫁ぎます。
2人の間には、豊臣秀頼に嫁いだ千姫、徳川家光、忠長など7人の子供がいました。
文殊塔(三重塔)(重要文化財) – 寛永10年(1633年)建立。近年まで文殊菩薩と脇侍像を安置していた。
現在は御影堂に安置(これらの像は運慶作と伝えられるが実際の作者は不明)。
黒谷墓地を見下ろす丘の上にある高さ約22mの三重塔は、1633年(寛永10年)に徳川二代将軍、徳川秀忠に仕えていた伊丹重好が、秀忠の菩提を弔うため建立。
文殊菩薩を本尊としていたため文殊塔とも呼ばれる。
なお、運慶作と伝えられ“日本三文殊随一”として信仰を集めた文殊菩薩は、現在、御影堂に遷座されています。
会津藩殉職者墓は墓地をずっと北へ進んで寺の北東にあります。
金戒光明寺は、徳川初期に、同じ浄土宗の知恩院とともに、城郭構造に改められていた。
会津藩主松平容保が幕末の文久2年閏8月1日(1862年9月24日)に京都守護職に就任すると、京都守護職会津藩の本陣となり、藩兵1,000人が京都に常駐し1年おきに交替した。
しかし、会津藩士のみでは手が回りきらなかったため、守護職御預かりとして新選組をその支配下に置き、治安の維持に当たらせた。
慶応3年12月9日(1868年1月3日)、この年の10月に行われた大政奉還後の王政復古の大号令によって、薩摩藩・長州藩が京都市中の支配権を確立したため、京都守護職は設置後6年をもって廃止された。
ここ黒谷の地で、鳥羽・伏見の戦いで戦死した会津藩士の菩提を弔っている。
山上墓地北東には約三百坪の敷地に『會津藩殉難者墓地』が有り、文久二年~慶応三年の五年間に亡くなられた二百三十七霊と鳥羽伏見の戦いの戦死者百十五霊を祀る慰霊碑(明治四十年三月建立)がある。
墓地には武士のみではなく、使役で仕えたと思われる苗字のない者も、婦人も同様に祀られている。
禁門の変(蛤御門の戦い)の戦死者は、一段積み上げられた台の上に三カ所に分けられ二十二霊祀られている。
會津松平家が神道であった関係で七割ほどの人々が神霊として葬られている。
また、會津墓地西側の西雲院庫裡前には「侠客 會津小鉄」の墓がある。
會津小鉄は本名上こう阪さか仙吉といい、會津藩松平容保が京都守護職在職中は表の家業は口入れ屋として、裏は、新選組の密偵として大活躍をした。
しかしながら、會津藩が鳥羽伏見の戦いで賊軍の汚名を着せられ戦死者の遺体が鳥羽伏見の路上に放置されていたのを子分二百余名を動員し、迫害も恐れず収容し近くの寺で荼毘に付し回向供養したという。
以後も、小鉄は容保公の恩義に報いんが為に黒谷會津墓地を西雲院住職とともに死守し、清掃・整備の奉仕を続けたという逸話が残っている。
現在西雲院では、六月の第二日曜日に會津藩殉難者追悼法要を會津松平家第十四代当主松平保もり久ひさ様ご列席のもと京都會津会主催で盛大に勤められている。
明治維新時の忘れることのできない悲劇の一つが松平容保と会津藩の悲劇である。
白虎隊の少年たちだけではなく、戦場で死んだ人たち、集団自殺した国家老・西郷頼母の家族21人や多くの武士の家族たち、邪魔者と見られバンザイ突撃を強いられた老人たちなど、 多くの人たちが死に追いやられた。
会津攻撃軍の残虐行為の犠牲者や、戦闘を避けて避難中、増水した川におちて溺死した者なども数知れずであった。
生き残った武士たちと家族約1万3000人は恐山山麓一帯(青森県下北半島のむつ市)に強制移住させられた。その後斗南藩として小川原湖東岸一帯に移住するが、農業についても、牧畜業についても、その他の職業についても、職業能力も職業経験も無いまま、慣れぬ異郷で辛酸な生活を強いられた。
明治4年の青森県の記録には「移住した会津人、1万3,027人のうち、3,300人ほどが各所出稼ぎ、あるいは離散の由にて、老年ならびに廃疾のもの6,027人、幼年のもの1,622人、男子壮健の者2,388人ほどの見込み」とあった。
会津藩の人たちにとって、下北の地は格子なき牢獄であり、 日々、餓死していくその姿はまさしく挙藩流罪であった。
どれを取り上げても心痛む話ばかりである。
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