明治から昭和にかけて、千代鶴是秀という鍛冶の名工がいたそうだ。
大正の頃、大阪に流れて風来大工をしていた江戸熊こと加藤熊次郎は、千代鶴是秀の評判を知り道具屋に注文を入れるが、寡作を理由に断られる。
そこで切々と願いを込めた手紙と戸籍謄本を直接是秀に送った。
熱意にうたれた是秀は、大入鑿(おおいれのみ)一組を鍛え上げ、夜行で大阪まで届けた。その値段は日当1円50銭の時代に150円。
江戸熊はこの大金を即払い。
質入れで用意したのである。
一方、是秀も大阪への汽車賃を質で工面していた。
質札を見せ合った二人はお互いの心意気に表情を崩して理解しあったという。
竹中大工道具館には明治天皇も訪れたという千代鶴是秀の鍛冶場・九三房が復元されている。
<広さ9尺×3間であったことから九三房と名付けられた>、と説明書きにある。
こんな鍛冶場なんて、こうして見てみないとまったく知らない世界であるが、それにしても明治天皇というお方はいろんな所へお出かけになっている。
火床(ほど)の壁は石積みで内側はモルタル塗り、天井からやかんが吊るしてあっり、壁の脇には鞴(ふいご)゜
火床の手前に金床と右手前に防火水槽。
是秀の小さな腰掛の左手にハシや火かき棒。
是秀の工法に影響を与えた栗原葉月作の文鎮を鞴の上に置いていた。
金床とイザリタガネ
40貫(150㎏)の金床は三木で作ったもの。
側面にイザリタガネの固定具を添え、向鎚なしに鉄材を切断した。
炭割鉈
正確な火加減をするために、五分角ほどに炭を壊して使用した。
左は是秀用で右は信(妻)用、いずれも自作。
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