石畳の旧柳生街道「滝坂ノ道」を歩く

奈良から春日山を越えて、忍辱山(にんにくせん)円成寺を通り西から柳生へ至る、通常「旧柳生街道」と言われている道の途中が「滝坂ノ道」で、風流な石畳の道だが少ししんどい山道だった。

日曜日の奈良公園は家族連れも多く子供たちが鹿と戯れる姿が見受けられた。

白乳(しらち)神社、春日大社の摂社で、(婦人)の腰から上の病に、赤乳神社は腰から下の病にご利益があるという。

石畳道が木立の中に続く。

能登川(左)沿いの滝坂の石畳道を進む。

川霧が立ち込めるような場所もあり木立の道は涼しい。

寝仏、道ばたのなにげない石の裏側に大日如来が横に刻まれています。
近くの四方仏の一体が転がり落ちたといわれ、室町前期の作です。
(案内板より)

「夕日観音」の案内板がある場所から見えるのは二つの三体地蔵と地蔵菩薩磨崖仏。

その二つの石仏の更に高いところに来迎印の阿弥陀如来像はあります。
鎌倉中期の作で像高1.6m胸に卍があり来迎印を結んでいるそうですが定かではありません。

朝日観音、対岸の岸壁に彫られているのは朝日観音。

これは早朝高円山の頂からさしのぼる朝日につま先に照らされることから名付けられたもので、実際には観音ではなく中央は弥靭仏 左右は地蔵仏です。

この石窟には文永二年(1265)の銘があり、鎌倉時代の石彫の代表的なもので、この下の夕日観音と同じ作者と思われています。

大木の根がタコ足状に地面にはい出た三叉路。

谷川沿いのこの道は滝坂道と呼ばれ、江戸中期に奈良奉行によって敷かれた石畳の道は、昭和の初めまで柳生方面から奈良へ米や薪炭を牛馬の背につけて下り、日用品を積んで帰っていくのに使われたものです。

荒木又右衛門が試し斬りしたと伝えられる首切地蔵です。
彫刻の手法から鎌倉時代の作と思われます。

休憩所の脇に滝坂道の案内板が建っています。

休憩所より1キロ強行くと峠の茶屋(石切峠)に着く。
石切峠の近くにある茶屋。

家のカモイには、古めかしい鉄砲や槍が掛けられ、武芸者が飲み代のカタにしたという。
神道無念流を図解した武芸帳もあります。

近くの誓多林(せたりん)や大慈仙(だいじせん)の集落の名は、インドの聖跡から付けられたといわれています。
(案内板より)

今回はここから引き返しますが来た道とは別の道を進む。
道は鎖場となっており鎖に掴まって通ります。

地獄谷聖人窟(石窟仏)、聖が住んでいたという伝承から「聖人窟」とも呼ばれています。
 
東大寺の大仏殿を造る石を切り出したあとの洞に線刻したものだと言う説もある。

史跡 地獄谷石窟仏(聖人窟)
1、年代 奈良時代後期(藤原時代)-推定
2.作者 未詳
3、 仏像
   凝灰岩層をくりぬいた石窟で側面に仏像が線彫されている。
   聖(ひじり)が住んでいたという伝説があり、聖人窟ともよばれる。
   向かって右側壁 妙見菩薩坐像
   奥壁右      十一面観音像
   中央        廬舎那仏
   左         薬師如来
弥勒仏は石仏で作られることから、中央廬舎那仏は弥勒仏という諸説がある。 
今も彩色が残っている。
          (近畿中国森林管理局 奈良森林管理事務所)


急な坂を下って、なおも行くと、奥山ドライブウエイの広い道に出ます。

「首切地蔵」の立っている直ぐ上が「地獄谷園地」です。
かなり高い所(標高366m)なのに「新池」があり、能登川の源流です。

先ほど上った石畳み道を奈良公園へと急ぐ。

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