大宰府管轄下の兵站基地 鞠智城(くくちじょう)

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鞠智城(くくちじょう)は、日本の城(古代山城)の一つ。
熊本県のサイトでは、「きくち」と振り仮名が振られている。

大宰府管轄下にあった6城の1つで、大野城・基肄城の兵站基地として有事に備えた城と考えられている。
城の面積は内城55ha、外縁地区65haに及ぶ。

温故創生之碑は平成8年に鞠智城のシンボルとして建てられました。     

中央に防人、前面に防人の妻と子、西側に築城の指導をしたと思われる百済の貴族、東側に八方ケ岳に祈りを捧げる巫女、北側には一対の鳳凰が立っています。

台座には、万葉集からの防人の歌(3首)と、城の歴史を解説した6枚のレリーフを掲げています。

城の面積は内城55ha、外縁地区65haに及ぶ広大な敷地に鞠智城はある、入り口付近から復元された八角形建物(鼓楼)を望む。

復元された八角形建物(鼓楼)、このような八角形建物は全国の古代山城では初めての発見。
この建物は高さ15.8mの3層構造で連絡用の太鼓を置いていたと考えられている。

復元した「米倉」は、長さ7.2m、幅9.6mの3間×4間の建物。

湿気を防ぐための高床の校倉造り、ねずみの害を防ぐためのねずみ返しなど、古代の人々のすばらしい知恵を感じる。

計算では1棟で1200俵が保存できる。
瓦は色も再現した復元瓦。(鼓楼の瓦も同じ。)

ねずみの害を防ぐためのねずみ返しのアップ。

文武天皇時代の修築記事(698年)で初めてその名が正史に登場するが、築城年は記載がなく現在も確定されていない。

しかし、7世紀後半、倭軍が朝鮮半島の白村江で唐・新羅の連合軍に敗れて、その来寇に備える軍事拠点と位置づけられて築城されたものであろう。

古代史の資料『六国史』の記述や百済系瓦の出土例などから、鞠智城は百済亡命貴族の指導で築城されたと考えられており、遺跡からは百済貴族が持ち込んだと推定される青銅製の菩薩立像も出土している。

昭和34年(1959年)に「(伝)鞠智城跡」として県指定遺跡に指定。

昭和42年(1967年)より発掘調査が行われ、当時としては珍しい八角形建物(韓国の二聖山城跡に類似の遺構がある)をはじめ72棟の建物基礎が現在までに確認されている。

平成6年(1994年)より「歴史公園鞠智城・温故創生館」として整備が開始された。
校倉造りの米倉や兵舎が平成9年(1997年)に、八角形鼓楼が平成11年(1999年)に復元され公開されている。

平成16年(2004年)に国の史跡に指定された。

兵舎、板葺き屋根、土壁、土間造りが特徴。
窓は突き上げ式で棒で支えていた。

復元されてからは、各種の出土品の仮展示場として使用されている。

大和朝廷の九州防衛策として忘れてはいけないのが、兵士として置かれていた防人。

任務は原則三年間。食料や武器は自前のうえに、残された家族の税も免除されるわけではなかったといいます。
防人として出ていく者にも、残された家族にも大変重くやりきれない制度でも、国家存亡の危機の前ではどうしようもなかったのでしょう。

防人として集められたのは、主として東国(現在の中部地方、関東地方にかけての地域)の農民だったので、任地までの道のりも大きな負担になったことでしょう。

180年の長きにわたり、累計で10万人ともいえる人々が動員されたといわれています。

鞠智城では、防人たちの暮らしをしのぶ一つとして、約50人の兵士が寝泊まりしていたと考えられている兵舎も復元されています。

当時、東アジアの政治的情勢は、非常に緊張していた。
日本は、友好国であった百済を復興するため援軍を送りましたが、663年の「白村江の戦い」で、唐と新羅の連合軍に敗北した。

このため、事態は急変し、直接日本が戦いの舞台となる危険が生じた。
そこで九州には、大宰府を守るために大野城(福岡県)、基肄城(佐賀県)、金田城(長崎県)が造られた。

鞠智城は、これらの城に食糧や武器、兵士などを補給する支援基地でした。

貯水池跡の池尻部から7世紀後半の百済系の銅造菩薩立像が出土し、古代山城の築城に百済の貴族が関わったという『日本書紀』の記述内容を裏付ける考古資料として、鞠智城の学術的価値がさらに高まりました。

鼓楼の一階内部。

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鞠智城へのアクセス、行き方歩き方

熊本県山鹿市菊鹿町米原443-1

交通センターよりバスで約60分、菊池プラザ下車。
→タクシーで約5分

熊本空港より車で … 約40分
植木I.C.より車で … 約20分

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