北極星が見守る古刹!能勢妙見さん


能勢妙見山は、大阪府豊能郡能勢町にある日蓮宗の寺院。

山号は無漏山。
本尊は妙見菩薩。
妙見山の山頂付近にあり、北極星信仰の聖地として知られる。

能勢妙見堂、また神仏習合時代の名残で境内入口に鳥居があることなどから、能勢妙見宮との通称もある。

正式には無漏山眞如寺 境外仏堂 能勢妙見山と言い、能勢町地黄にある真如寺の境外仏堂である。

信徒会館 星嶺

山頂付近には「星嶺」(せいれい)という、当山の寺紋(能勢氏の家紋である切竹矢筈十字)をかたどった信徒会館が1998年(平成10年)4月に建てられており、2階の礼拝堂は床が全てガラス張りという仏教の礼拝堂とは思えない構造となっている。

中には以前は寺院の売店があり、この売店は簡易郵便局も受託していた。

能勢妙見宮の簡易郵便局受託解除により郵政民営化直前の2007年(平成19年)5月2日限りで一時閉鎖扱いとなった。

その後2009年(平成21年)6月29日に、境内の北側にある特定郵便局であった元・妙見山郵便局の局舎にて委託者を変更して再開した。

売店があった頃はいつでも自由に内部に入ることができ、無料休憩所もあったが、現在では礼拝の時以外は立ち入れなくなっており、売店は寺務所の左手の廃業した旅館に移っている。

天正9年(1581年)に明智光秀に攻められた能勢頼次が本拠地の丸山城から当山に移り、山頂の大空寺の跡地に為楽山城を築いて光秀軍と戦うが、やがて光秀に降伏した。

しかし、本能寺の変で織田信長が光秀に殺されると、そのまま光秀の下にとどまっていた頼次は羽柴秀吉の攻撃を受け、丸山城は落城した。

頼次は為楽山城から脱出して備前国に逃亡したため能勢の領地を失ってしまった。

その後、頼次は徳川家康の家臣となり 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで活躍したことにより、再び能勢の地を領地として宛がわれ、頼次は能勢氏を江戸幕府の旗本として再興させた。

頼次は日蓮宗の日乾(後の日蓮宗総本山である身延山久遠寺21世)に帰依し、日乾を新たに頼次自ら開基として開いた真如寺の開山とした。

慶長8年(1603年)には日乾の手によって新たな妙見菩薩像が彫られるが、これを行基ゆかりの大空寺の趾であり、またかつての自城であった為楽山城の跡地に慶長10年(1605年)に建立した本殿(開運殿)に祀ることとした。

こうして山の名も妙見山と呼ばれるようになった。
これが現在の能勢妙見山である。

山頂までは多くの旧参詣道(ハイキング道)がある。その多くが山麓から1時間以上かかるが、自家用車で訪れる場合の最も手軽なルートは本瀧寺から登るルートとされる。

「日本一の里山」

里山とは、人が生活の燃料(炭・薪)などに使うため、定期的に伐採・利用される山(二次林)のことをいいます。

里山林では、十数年の周期で伐採・萌芽再生(切り株から新しい芽を出して樹木を再生)を繰り返します。

そのため、里山林全体はモザイク状(パッチワーク状)の景観となります。

炭や薪を利用しなくなった現在では国内の里山林は放置され、その独特の景観も見られなくなりました。

本当の意味での里山はほとんどの地域で絶滅しましたが、当地域の里山は千利休や豊臣秀吉などが用いたとの伝承もある菊炭(一庫炭の通称で、別名池田炭とも呼ばれる)を今もなお生産しており、里山景観が維持されている貴重な地域で「日本一の里」と言われている。

アクセス
妙見口駅下車、奥田橋・今西行き阪急バスでケーブル前下車または徒歩約20分で、「妙見の森ケーブルのりば」からケーブル、徒歩でふれあい広場へ

正月三が日

初日の出や初詣などで、大晦日から三が日にかけて例年非常に多くの人が訪れる。

そのため通常と異なる交通規制やこの時期のみ利用できる公共交通機関があるので事前に調べておくことが勧められる。

周辺のJR、阪急電鉄、能勢電鉄、妙見の森ケーブル、妙見の森リフトは終日運行している。(大晦日~元旦)

また、能勢電鉄妙見口駅から妙見の森ケーブル黒川駅までは通常徒歩かタクシーのみだが、この時期のみ阪急バスが運行している。

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姫路城 夜景


前項「坂越浦 レトロ散歩」の続編です、27日に強引な撮影を入れてしまって、続編が今です。

坂越では食事処も少ないので姫路まで移動、ついでにお城の夜景をとっておこうかといったところ。

ただ今19時前、桜門前、ほとんど人もいません。

以前、姫路城は何処からの眺望が一番いいかなと、ビューポイントを探して歩いたことがあったが・・・・

姫路城ビューポイント探訪
2015年3月27日再公開以来人出の多さを気にしながら訪問の機会をうかがっていた … 続きを読む →

喜斎門跡からの夜景、堀への映り込みがきれいだった記憶がある。

現在の桜門橋は発掘調査で出土した橋台の遺構を活かしながら、江戸時代の木橋をイメージして築いたもの。

平成19年2月17日に多くの関係者の出席のもと、テープがカットされ渡り初め式が行われた。

渡り初め式には、三世代夫婦、お殿様、お姫様、お城の女王、お城おどり保存会他多くの方も参加。

桜門橋からの眺望。

大手前通りは、JR山陽本線姫路駅から姫路城大手門(桜門)前の姫路城前交差点に至る、全長約840m・幅員50mの道路。

日本の道100選の一つに選ばれている。

姫路城城下町、中曲輪・外曲輪に当たる範囲にある。

多数のブロンズ像などが設置されており、様々なイベントの場、憩いの場として親しまれている。

裸婦像

夏帽子の少女

この辺りからの眺望が一番きれいかな。

眺望デッキ「キャッスルビュー」から多重露光を試みる。

やぁ、疲れました、今日の歩行は23,000歩、帰宅時間は11時30分、かなり無理をしました。

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坂越浦 レトロ散歩


播州赤穂から一駅、「坂越」

日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落」坂越 これからゆっくりと歩きます。

坂越(さこし)は、兵庫県赤穂市東部の坂越湾に面する港町。

都市景観大賞(都市景観100選)にも選ばれた伝統的建造物群による古い町並みと、秦河勝聖域の島、生島(国の天然記念物、瀬戸内海国立公園特別保護地区、ひょうごの森百選)を包むように広がる美しい坂越湾の眺望で知られる。

播州赤穂産『坂越のかき』の養殖生産地である。

坂越大道 – 千種川の高瀬舟船着き場と坂越の港を結ぶ通り。

通りの両側には、坂越で最も往時の面影を残す美しい町並みが続く。

近年、古民家を活用したカフェや人気スイーツ店が出店、赤穂の新しい観光スポットになっている。

大道から延びる細い路地ものぞき見ながら、ゆるやかな坂道を海に向かって下っていきます。

しあわせなより道

店名の由来は、店主が好きな歌詞のフレーズから。

「ここに立ち寄って幸せになって帰ってもらえたら」との思いが込められています。

店主が好きなものを詰め込んだという店内は、やさしく温かな空気をまとっています。

「坂越の人気カフェ「暖木(のんき)」の姉妹店として、4軒隣にオープンした雑貨店「紡木」。

ノスタルジックな佇まいが町並みに溶け込んでいます。

大道のほぼ中央にある「坂越まち並み館」は、大正末期の建造物である旧奥藤銀行を、坂越のまち並み景観創造のための拠点として整備した施設です。

古いアメリカ製の大きな金庫が残されており、銀行として機能していた当時の歴史を感じることができます。

開けてもいいよと言われ開けてみると中は物置になっていました。

年代を感じさせるタコつぼ。

塩焼く煙も懐かしい西浜塩田風景(昭和初期)
暖木・紡木 店主より寄贈とのこと。

坂越の舟祭りは国の重要無形民俗文化財 10月第2日曜 開催。

坂越まち並み館のおばちゃんから通りを歩くだけではつまらん、路地路地に入り、路地から大通りをのぞくといいと教えられる。

なるほど言われるとおりだ、路地をのぞくより、路地から大通りを覗くのがいい。

自転車屋さんのユニークなカンバン。

こんなかわいいカンバンも。

奥藤酒造 創業は、慶長6年(桃山時代1601年)。

現在も操業する酒蔵では、神戸市にある剣菱酒造、伊丹市にある小西酒造に次いで兵庫県で三番目に古く、全国でも有数の歴史を持つ老舗の酒蔵として知られる。

ちなみに赤穂浪士が討ち入り前に飲んだという清酒は剣菱。

近年、兵庫県立上郡高等学校農業科の生徒が仕込んだ清酒の販売も行っている。

約400年続くこちらの大きな酒蔵の一角に、江戸時代の酒造りの道具や廻船に関する道具、当時の資料などが展示された「奥藤酒造郷土館」があります。

豪商奥藤家の栄華を思いつつ見学したあとは、銘酒「忠臣蔵」「乙女」などの利き酒体験もOK。お気に入りの銘柄を、お土産にぜひ。

教えられた通り奥藤家の路地を覗いてみる。

坂越港と千種川とを結ぶ低い峠越えの中心通りを下りきった場所に位置する『旧坂越浦会所』。

1831年~1832年に行政や商業などの事務をする為の村会所として設立されました。

また、赤穂藩の茶屋としても役割を持ち、2階には『観海楼』と呼ばれる部屋があり、窓からは美しい坂越港が眺められます。

現在では、歴史的建造物の公開施設として、多くの観光客を迎えています。

大避神社の祭礼の写真がいい。

やはりここは路地を覗かないとダメなんだ、あちこちに写真が飾ってある。

二階の藩主専用の部屋は観海楼と呼ばれていて、床の間付きの藩主専用の間、落ちの間と呼ばれる寝所はベンガラが壁に塗り込められています。

藩主専用の部屋だった『観海楼』からは、その名の通り美しい坂越の海が見渡せました。

現在は埋め立てによって海岸線が遠くなりましたが、当時はこの建物のすぐ前が海だったそうです。

「歩」という字はすこし止まると書く、たまには立ち止まることも大事  ぜひ入って休憩を・・・・  なるほど!!

ここでも覗いてみる。

聖徳太子のブレーンとして活躍した秦河勝(はたのかわかつ)は坂越に漂着し千種川の開拓を手がけたとされます。

その秦河勝をご祭神とする「大避神社(おおさけじんじゃ)」には、謎が!

拝殿に向かう階段は12段。境内のヤスライ井戸は12本の石柱から成り、注目の拝殿天井絵は12×8枚あるという……。

石段を登って神門をくぐると、大避神社の拝殿が鎮座します。

拝殿の両脇に絵馬堂が連なる珍しい形をしており、そこに江戸時代以降の貴重な絵馬が約40ほど掲げられています。

播磨灘に位置する天然の良港坂越浦には、渡来人であった秦河勝を始め、南朝(南北朝時代)の忠臣であった児島高徳など、多くの偉人伝説が残る。

地元に残るそれら人々の伝承記録をみると、坂越が瀬戸内往来の重要な中継地として長くあった事が窺える。

807年(大同2年)、中国からの帰途であった空海、901年(延喜元年)、都から九州の大宰府へ下る途中であった菅原道真、1565年(永禄7年)、長崎・平戸から京都に向かう途中のイエズス会宣教師ルイス・フロイスの他、1587年(天正15年)、九州遠征中の豊臣秀吉を見舞った細川幽斎も、その帰途に坂越に足跡を残す[6][7]。

17世紀に入ると、瀬戸内海有数の廻船業(西廻り航路)の拠点として発展[8]、奥藤、大西、岩崎、渋谷などの豪商が廻船業を営み、坂越浦には西回り航路用の大型廻船31艘、内海航路用の小型廻船15艘余りが犇いていたという。

また、西国大名の参勤交代の港としても使われていた。

この頃の坂越港には、数回にわたってオランダ船の入港記録もあり、1787年(天明7年)には、蘭学者でもあった司馬江漢が坂越に立ち寄っているのが興味深い(『江漢西遊日記』)。

18世紀以降、北前船が停泊する日本海諸港の台頭によって瀬戸内の港町の多くが衰退する中、坂越は「赤穂の塩」を運ぶ北前船の港として明治時代まで栄え、坂越浦から、高瀬舟の発着場があった千種川まで続く「大道(だいどう)」と呼ばれる通りの風格ある町並みは、往時の繁栄を今に伝えている。

裏道の終点にある『船岡公園』は、旧『坂越浦城』の跡地に整備された展望公園。

芝生広場と休憩用の東屋があります。

坂越浦城は坂越浦砦とも呼ばれ、室町時代に播磨地方を支配していた山名氏が築いた城。

江戸時代には赤穂藩の番所が置かれ、坂越浦に出入りする船を監視していました。

もう少し登れば妙見寺観音堂だが炎天下を歩き続けもう限界です、ここから引き返します。

秦氏は、「古代史最後の謎」といっても過言ではない、京都に足跡が多く存在する。

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広隆寺は真言宗系単立。 山号を蜂岡山と称する。 蜂岡寺(はちおかでら)、秦公寺( … 続きを読む →


やっと「暖木」までたどりつまました。

ここでおいしいかき氷にありつき、息を吹き返しました。
今日は結局、23,000歩歩いていました。

千種川、「ちぐさがわ」とも呼ばれる。

ここを渡れば坂越駅はもうすぐ。

清流で知られ、名水百選に選ばれている。

加古川・市川・揖保川・夢前川と並び播磨五川と呼ばれる。

水深が浅く流速が速いために川底の石の苔の育成が良く、兵庫県下で屈指のアユ釣り場として知られる。

若かりし頃ここまで鮎釣りに来ました、もう50年以上昔の話です。

これから姫路まで行き夕ご飯を頂きます、何度でも途中下車できるのが青春18切符のいいとこですね。

交通アクセス
JR赤穂線坂越駅から、坂越港までゆっくり歩いて徒歩約30分。

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播磨灘を眺めながら御崎めぐり


青春18切符第二弾は播州赤穂。

御崎めぐりとレトロな港町「坂越」を訪ねます。

赤穂の駅頭には「日本の魂のふるさと忠臣蔵と、山鹿素行の武士道の教えが生きたまち」のカンバンが。

山鹿素行は朱子学を批判したことから播磨国赤穂藩へお預けの身となり、そこで赤穂藩士の教育を行う。
赤穂藩国家老の大石良雄も門弟の一人であり、良雄が活躍した元禄赤穂事件以後、山鹿流には「実戦的な軍学」という評判が立つことになる。

延宝3年(1675年)、許されて江戸へ戻り、その後の10年間は軍学を教えた。
その教えは、後代の吉田松陰などに影響を与えている。

赤穂御崎温泉街にある「伊和都比売(いわつひめ)神社」、海に向かって立つ美しい鳥居が目を引きます。

神社のすぐ下は御崎海岸遊歩道として整備されおり、海を眺めながらのんびり散歩できます。

赤穂御崎が平成25年に恋人の聖地に認定され、記念のモニュメントが境内にあります。

古くから姫神信仰が盛んでご利益のある「姫守」が人気。

夕日のメッカでもあり、ほんとは夕日を撮りたかったのだが雨続きの毎日であきらめる。

赤穂市内唯一の式内社で祭神は伊和都比売。

もとは神社前の沖の大薗(現在灯台のあるところ)と呼ばれる御前岩(八丁岩)の上にあった社を赤穂藩浅野家初代藩主浅野長直により天和3年(1683)に現在の場所に移された。

森の上に頭を少しだけ見せている「赤穂御埼灯台」

赤穂御崎温泉の高台にあり 南は播磨灘に面し小豆島をはじめ家島諸島や条件次第では四国を見ることができ、北に赤穂の市街地を一望にできるスポットです。

★海上保安庁の正式名称は「赤穂御埼灯台」ですが、赤穂御崎にあわせて「崎」の字を使っています。

「きらきら坂」

路面は石張り、階段の段差部分は幾何学模様のタイル張りとなり、イタリアの町並みのように美しく、落ち着いた雰囲気に生まれ変わっています。

その道沿いには、カフェやジェラートショップ、ガラス舎などが集まり人気のスポット。

坂を下れば播磨灘。

神社の祠があり多くの人々の信仰を集める場所でしたが、いつのころからか恋人たちが「たたみ岩」で愛を誓うと恋が成就すると言われるように。

1日に2回、潮の干満によって岸から「たたみ岩」まで道が出来て、わずか数時間だけ歩いて渡ることが出来る。

ライトアップもされるようになったので幻想的でさらにロマンティックに。

海岸沿いには遊歩道が整備されています、奇岩や節理等の崖と磯が続く変化に富む岬で、沖に家島諸島や小豆島を望める景勝の地だ。

播磨灘を眺めながら二人で散歩を・・・・、好いことがありそうですよ。

大石名残の松

石碑には「 血涙を呑んで赤穂開城を終えた大石内蔵助は元禄14年(1701)年6月半ば妻子をこの港より海路遠く大坂表に送り出し自らは6月25日其の後を追って山科に向った。

其の時、御崎の巌頭に立つ老松を見返りつつ名残を人びとは、これを「名残の松」と云い伝えているが今は枯れ幹に儚く昔の語り種を残す。 」と刻まれています。

過去の訪問記

江戸軍学の理想を実現した 赤穂城
江戸時代、赤穂藩の藩庁が置かれた。 元和偃武の後、本格築城された城郭である。 縄 … 続きを読む →

歴代赤穂藩主の菩提寺 花岳寺
播磨国赤穂藩・浅野家、永井家、森家歴代藩主の菩提寺であり、また、大石良雄の祖先が … 続きを読む →

御崎へのアクセス
公共交通機関JR「播州赤穂駅」よりウエスト神姫バス東御崎下車、徒歩すぐ
車山陽自動車道「赤穂IC」より約20分

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千姫の小径から 好古園へ


文学館を辞し「千姫の小径」を南へたどり「好古園」へ向かいます。

千姫は、7歳で豊臣秀吉の息子・豊臣秀頼と政略結婚。

大坂夏の陣で炎上する大坂城から救出され、江戸に帰る途中、桑名城主・本多忠政(ほんだただまさ=徳川四天王・本多忠勝の子、正室は家康の孫・熊姫)の子・本多忠刻(ほんだただとき)と運命的な出会いをします。

桑名の七里渡しの船中でたまたま本多忠刻と同船となり、惹かれ合ったというドラマチックな展開に。

津和野藩主・坂崎直盛(さかざきなおもり)は、千姫輿入れの行列を襲っての強奪を企てますが(千姫事件)、大名の坂崎氏はこれによって断絶。

その後、本多忠政は桑名藩主から、西国の押さえとして姫路藩主となり、元和3年(1613年)、千姫も姫路城に移り住んでいます。

千姫の小径は西部中濠と船場川の間に南北にのびた土の道です。

道にはモミジや桜が植えられ、左右の水と共に心を和ましてくれる散策路となっています。

千姫の小径は、千姫が忠刻とくつろいだ西の丸の化粧櫓(徳川家から輿入れ時に賜った10万石の化粧料で造ったとされる櫓)、侍女たちが待機した長局(ながつぼね)の白壁を見上げるコースとなるのが名の由来です。

姫路城は内堀(現存)、中堀(一部現存)、外堀(埋め立てされている)の3重の堀で守られており、さらに船場川の川筋を鍵形に付替えて、外堀の一部に利用して、防御機能を高めていました。

姫路城と姫路駅の間を横断する国道2号はかつての中堀にあたりますが埋め立てられて国道になっています。

千姫の小径の脇を流れる船場川は外堀としても機能の他、瀬戸内海交通の要衝である飾万津(しかまづ=飾磨津)との舟運も担っていました。

上りは陸から綱で引き、下りは流れに任せて下っています。

好古園(こうこえん)は兵庫県姫路市、姫路城のすぐそばにある平成4年に開園した日本庭園。

発掘調査で確認された姫路城西屋敷の地割りを生かして、趣の異なる9つの庭園で構成されています。
季節により様々な花が咲きますが、特に紅葉の美しさに定評があります。

画像は築地塀(ついじへい)

好古園の影の主役ともいえる築地塀。
各庭を仕切る役目の他、余計なものを隠す背景としても役に立っています。

6年前の晩秋に好古園を訪ねています。
晩秋の好古園
「好古園」は、江戸時代に現在の庭園入口付近に存在した藩校「好古堂」に因むもの。 … 続きを読む →


季節のサルスベリの花がきれいです、門をくぐると「活水軒」(レストラン)今日はこちらのレストランでお昼です、庭を眺めながらの食事です。

活水軒と潮音斎(ちょうおんさい)を結ぶ、総檜造りの渡り廊下。

中央が曲面になっています。

左右に水の流れや池が見え、特に順路向かって左の滝状になっている水の流れが美しい。

渡り廊下を渡ると流れのある庭、秋にはもみじが美しい。

潮音斎

池側に大きく開かれた縁台(観庭台)がある建物。

中秋の名月を眺めるのに最適な方向に向けて開けているそうです。

池の奥にある樹林や雄滝、水の流れが美しい。

池泉回遊式の「御屋敷の庭」や本格的数寄屋建築の茶室・双樹庵のある「茶の庭」など九つの庭園群で構成され江戸の情緒を醸し出すそのたたずまいは時代劇や大河ドラマのロケ地としても使われています。

正式名は姫路城西御屋敷跡庭園好古園。

「好古園」とは、江戸時代に現在の庭園入口付近に存在した藩校「好古堂」に因むもの。

御屋敷の庭

池泉回遊式の、区切られた9つの中で最大の庭。

池に架かる石橋や、池を泳ぐ錦鯉、周囲にある姫山樹林を借景にした日本庭園らしい景色が見所。

松の庭

瀬戸内地方のアカマツ林をイメージした庭園。

散策中にあちこちでお城の廓が見えます。

庭園の面積は、約一万坪、九つの庭を見逃さないように回るのは大変。

世界遺産・姫路城を借景にした本格的な日本庭園は姫路観光にも人気の場所です。

キキョウのブルーがきれいです。

15種類の竹類を植栽した庭園で中央に八角の和傘をイメージした四阿「聞竹亭」を配す。

好古園までのアクセスは

姫路城の西隣に隣接しているので、観光で来られた方は、お城を見学された後などに是非立ち寄っていただきたい。
姫路城からは一度大手門を出て西へ、お堀沿いに歩いてゆくと右手に見えてきます。

【バスの場合】

姫路駅北口から神姫バス乗車【姫路城大手門前 】下車、徒歩約5分
9、10、17、18番乗り場からは〔7、8、9、11、12、13、41、42、43、45、51、52、53〕のバス乗車【聴覚特別支援学校・好古園前】下車すぐ
観光ループバスをご利用の場合、姫路城周りを一周した後、好古園前に停車します。

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安藤忠雄の世界 姫路文学館


久し振りに青春18切符の旅です。

あいにくの雨で撮影も思うに任せません。

今回は姫路文学館、国宝姫路城の北西に位置し、建築家安藤忠雄氏の設計によるユニークなデザインが古い町並みに新しい風景を添えています。

アプローチは長めで、亀甲柄の石壁やコンクリートの組み合わせがいい感じ。

1991年(平成3年)に播磨地方縁の文学者達の資料の収集を目的に姫路市によって北館が開館、1996年(平成8年)に南館が開館した。

安藤忠雄設計の施設は現代建築の秀作として知られており、姫路城にも近接していることから、海外の観光ツアーのコースにしばしば組み込まれる。

初代館長は中西進、その後は上田正昭を経て、現館長は藤原正彦。

平成3年、国土交通省から「手づくり郷土賞」(素材部門部門)を受賞した。
2015年(平成27年)6月8日から改装工事に入り、2016年(平成28年)7月30日にリニューアルオープンした。

主に建物は3つあり、北館(本館)、南館(図書室)、望景邸から成ります。

1階は姫路市の歴史、文豪の紹介がされていてなかなか楽しめます。

2階は一部文豪の作品展示があります。

南館には〈司馬遼太郎記念室〉があります。

文学館の関連施設『望景亭』は大正時代に建てられた近代和風建築で、『姫路文学館望景亭(旧濱本家住宅)』として棟門・和室・茶室・廊下・石垣が国登録有形文化財。

この望景亭は城下町/武家屋敷ルーツではなく、幕末~近代に播州・姫路を代表する実業家・濱本家の別邸として1916年(大正5年)~1929年(昭和4年)にかけて建立されたもの。

江戸時代から当地の大地主で、姫路藩御用達だった濱本家。

明治維新後は姫路銀行/姫路商業銀行/姫路瓦斯/播磨紡績などを創立・経営した姫路を代表する実業家に成長。

濱本八治郎別邸の後は陸軍の隊長として姫路に着任された賀陽宮恒憲王が居住したり、戦後のGHQの高官の住まいを経て、1958年(昭和33年)から姫路市所有に。

「男山市民寮」や結婚式場「瑞泉閣」として市民に利用されました。
しかし姫路文学館の建築に伴い、建物は元の1/3程度に縮小。

唐破風の玄関や棟門も縮小の際に別の場所に移築されたもので、“望景亭”の名も元からの名前ではなく1991年の再開館の際に裏千家十五世・千宗室による命名。

姫路文学館へのアクセス、JR・山電姫路駅前の神姫バスターミナルに行き9・10・17・18番乗り場から乗車。

約6分「市之橋文学館前」下車北へ徒歩約4分。

もしくは6番乗り場で城周辺観光ループバス乗車10分「清水橋(文学館前)」下車西へ徒歩約3分。

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旧居留地 散策


旧居留地とは、かつて主に安政五カ国条約により外国の治外法権が及んでいたことのある区域を指す。

神奈川県横浜市、大阪府大阪市、兵庫県神戸市、長崎県長崎市の旧居留地が有名。

関西旅行・ツアー・観光

神戸の旧居留地は、北は西国街道、東は旧生田川(現在のフラワーロード)、西は鯉川(現在の鯉川筋)、南は海に囲まれた周囲と隔絶されていた地区で、そこにイギリス人技師J.W.ハートが居留地(神戸外国人居留地)の設計を行い、整然とした西洋の街を造り上げた。

画像は「球体のある風景」

その後、東西の川は移設(付け替え)や暗渠化によって道路となったが、現在も道路を越えると街の雰囲気が一変する。

1868年(明治元年)から1899年(明治32年)の返還までに、外国人に126区画に分けて競売された治外法権の場所であった。

やがて、居留地の外国人が山手に住居を構えるようになったのが、北野異人館街である。

当時、条約の未締結国であった清国から神戸に渡ってきた華僑は、居留地には住むことができず、その西側に多く住み着き、南京町といった中華街を築いていった。

居留地に対してこれら西側のエリアを雑居地といった。

旧居留地38番館

昭和4年(1929年)にナショナルシティバンク神戸支店として竣工。
神戸女学院や関西学院大学などを手掛けたヴォーリズ建築事務所の設計。

名称にある「38」という数字は、外国人居留地時代の区画番号を意味する。

1980年代までは、「老朽化した古いビルのオフィス街」という認識であったが、1988年に起こった旧神戸商工会議所ビルの保存運動が街再生のきっかけとなる。

商工会議所ビル自体は解体されたが、居留地の一角を占める百貨店大丸神戸店が自ら所有していたヴォーリズ設計の近代建築をLive Lab West(現旧居留地38番館)として店舗化し、さらに周辺の近代西洋建築へ高級ブティックを積極的に出店していった。

それによって近代建築オーナーの意識も変わり、近代建築が点在するのではなく「街並み」として「面」として存在することの価値を認識するようになる。

2000年代に入るとLVMHなどの外資ブランドが直接参入し、今では「最も神戸らしい洗練された街」として活況を呈するようになった。

これは市民運動と商業資本のコラボレーションの成功例として特記に値する。

1992年に国土交通省の都市景観100選に選定、2007年には旧居留地連絡協議会が日本都市計画学会の最高賞である石川賞を受賞[1]している。

看板下の通路を入った場所の真っ赤な電話ボックスと噴水の女神様が目印!

この場所には「ニケの像」が設置されています。

ニケとはギリシア神話に登場する「勝利の女神」。

この像は震災以前は、トアロード玄関の柱に設置されていました。

当時は、神戸の街の特性を考慮して神戸店を船にたとえ、

安全で素晴らしい航海を祈願したものとされています。

震災の際も崩れることなく残っていたため、

彼女が掲げ持つ太陽が、神戸店の進むべき航路を

明るく照らしてくれることを祈り、この場所に復活させました。

散策していてもその洗練されたディスプレイは我々を飽きさせない。

一つ一つがおしゃれだ。

明石町筋から北を望む、一番気に入っている風景、遠景は神戸旧居留地(元町・三宮)にある結婚式場【神戸セントモルガン教会】

グランフロント大阪で開催されている『バンクシーって誰?展』を記念して、ウィンドウディスプレイを使った遊び心溢れる展示を展開。

ストリートアートでも注目の「バンクシー」の作品が、神戸店内の至るところにディスプレイされています。

家族の詩(うた)-憩う時
平成8年
綿引 道郎

第3回神戸須磨離宮公園現代彫刻展
神戸市長賞(大賞)

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ハーバーウォーク


ハーバーウォークとは、1992年の神戸ハーバーランド完成に合わせて旧神戸港信号所から煉瓦倉庫レストラン街横の船着場まで海沿いに整備された板敷きの道(ボードウォーク)のこと。

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等間隔に街灯とベンチが設置され、静かに海を眺めることができる。

神戸ガス灯通りの「カルメニ」というビルの前に銅製のキリン像が立っていて、いやおうでも、通りすがりの人達の目にとまります。
 
ちなみに、「カルメニ」とはカルチャーとアメニティーのことだそうです。
 
ネットで調べてみますと、高さは8m、第7回神戸具象彫刻大賞展にて神戸市長賞を受賞した作品で、正式な名称を「蒼天の塔(せいてんのとう)」といいます。

はねっこ橋の内側の護岸はドック状(本当のドックではない)になっていて、スリップ(スロープ)が設けられている。

ということは、ハーバーランドの開発当初から小型船の停泊や水陸両用車の運用を想定していたと思われる。

下の石の部分には、“八時間労働発祥之地”と刻まれている

実は、日本で最初に8時間労働制を取り入れた企業は、カワサキ(当時は川崎造船所)なのだ。

つまり、8時間労働制は、神戸で発祥したということ。
そして、それを記念して神戸ハーバーランドに建てられたのが、この像だ。

対岸には、川崎重工業第四ドックがある。

海上自衛隊の潜水艦が、修理中である場合や船舶が停留されていることが多い。

通りがかりの老人があれは5000トンの潜水艦だと教えてくれた。

潜水艦が定期修理のためドック入りすると、約70人の乗組員も工場内に寝泊まりし、自ら修理したり修繕作業を監督したりする。

家族を呼び寄せて、つかの間の水入らずを楽しむ隊員もいるという。

煉瓦倉庫レストラン街横の船着場まで海沿いに整備された板敷きの道(ボードウォーク)。

神戸煉瓦倉庫は貿易港として開発が進む神戸港に1890年作られた赤レンガの倉庫街。

昔は神戸港に到着した荷物の保管場所として機能していましたが、時代の流れと共にその役目を終え、現在はレストランや家具店などが入店する観光名所のひとつとなっています。

青雲丸 (初代)の代船として住友重機械工業横須賀造船所で建造され、1997年3月4日に進水、1997年9月25日に竣工した。

進水式には皇太子徳仁親王、皇太子徳仁親王妃雅子の行啓を仰いだ。船名板の船名「青雲丸」の文字は、当時の運輸大臣であった亀井善之揮毫による。

日本丸II世と姉妹船の海王丸II世(1989年(平成元年)就航)を見分けるための大きな違いは、船体横(舷側)の青いラインの数と舳先にある船首像である。

青いラインが濃く1本が日本丸II世、薄い青で2本が海王丸II世、日本丸II世の船首像は手を合わせて祈る女性の姿をしており、「藍青(らんじょう)」と名付けられている。

海王丸II世の船首像は横笛を吹く女性で、「紺青(こんじょう)」と名付けられている。

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一年牡蠣で有名 室津


今日のお昼は湾が一望の道の駅みつ(御津) 魚菜屋(ととなや)、シーズンには海鮮バーベキューや室津の焼き牡蠣も楽しめ、屋上はテラス席になっている。
海産物だけでなく、地元野菜や加工物等、土産物も多い。

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港町として約1300年の歴史を持ち、奈良時代に行基により5つの港が整備され、江戸時代には栄華を極め宿場町としても栄える。

多くの文豪、文人墨客を魅了し竹久夢二、井原西鶴、谷崎潤一郎、司馬遼太郎、つげ義春、平岩弓枝らが来訪し作品に描いた。

約2000年前、神武天皇の東征先導役が室津に港を建設したといわれる。藻

振ノ鼻(室津半島先端部)と金ヶ崎(たつの市・相生市境)で囲まれた室津湾の、さらに東側奥にあることから、「室の如く静かな津」ということで「室の泊」と呼ばれたのがその名の始まりと伝えられる。

江戸時代になると、参勤交代の西国大名の殆どが海路で室津港に上陸して陸路を進んだため、港の周辺は日本最大級の宿場となった。通常、宿場におかれる本陣は、1軒、多くとも2軒であるが、室津には6軒(肥後屋・肥前屋・紀国屋・筑前屋・薩摩屋・一津屋)もあった。

江戸参府で室津に滞在したシーボルトは賀茂神社参ろう所から見た播磨灘を「日本の美しい景色として」絶賛した。

しかし、明治に入ると参勤交代の制度が無くなり、鉄道・道路が内陸部に敷かれたため急速に衰退した。

帆船時代には瀬戸内海の重要な港として栄え、遊女発祥地として色々な伝説や悲話が残っている。

四国配流の途中、法然に室の遊女が結縁した伝承が示すように日本の遊女の発祥地といわれている。

有名な遊女は代々室君と呼ばれていた。

伝説に円教寺で修行していた弁慶が夜に山を下りて遊女のもとに通い、明け方には戻ったという。
ちなみに円教寺と室津は直線距離にして約20kmである。

賀茂神社(かもじんじゃ)は、兵庫県たつの市室津明神山にある神社。

本殿を含めて8棟の建造物が国の重要文化財に指定されている。

別名を室明神社といいます。

平安時代に賀茂別雷神社の直系御厨の地になった、境内にあるソテツは野生のものでは日本列島の北限として県指定文化財にもなっています。

平清盛が厳島詣での折、この地に立ち寄り、神前に祈願した際、古びた5・6棟の社殿が立ち並んでいたと「高倉院厳島御幸記」に記されています。

また、江戸参府時にシーボルトが訪れ参籠所から播磨灘の展望を絶賛するなど景勝地としても有名。

唐門と東西の回廊、背後に社殿群がある。

岩見漁港方面に見える地肌の出た大きな岩は流紋岩で、太古の昔、溶岩が流れ下った跡である。

瀬戸内海がかつては大地溝帯であり、今では想像もできない激しい火山活動をしていた痕跡となっている。

大阪城の石

豊臣秀吉が大阪城築城のとき、石垣に使うため西国大名が運ぶ途中室の泊で海中に落としたもの、と伝わる。

400年程改定に沈んだままであったが、昭和47年室津漁港改修工事で引き揚げられ、湊口番所あたりに置かれた。

このような巨石を全国から集めて築城工事がされた事は多くの人達の労苦、栄枯盛衰を見てきた港の歴史を今に伝える物である。

もやい石

室津に入港した北前船を係留する際、船の綱を繋ぎとめていた石。

もやい石の全長は約180cmほどだが大きな船を繋ぎとめる為、ほとんどが地中に埋められ、地上に出ているのは約60cmほどだったそう。

昭和40年代頃の護岸工事の際に撤去されたものを現在展示されている。

また、当時もやい石があった場所も観光駐車場の近くに残されている。

室津のもやい石は全体像を見ることができる全国的に見ても貴重なもの。

津波避難階段。

『街道をゆく』の取材で、司馬遼太郎、須田剋太らの一行は、室津に泊まっている。

七曲(ななまがり)からの道路は、嫦峨山(じょうがざん)の崖の中腹を通っている。道路上から入江の景観が見おろせる。宿は、その道路上に、崖に背をもたせるように建っている。(中略)
部屋に入ると、この宿に感謝する気持になった。

アルミ枠のガラスいっぱいに室津港が見おろせるし、地図ではよほど沖合かと思っていた中ノ唐荷(からに)島と沖ノ唐荷島が、ちかぢかと見えるのである。

この司馬遼太郎の文章には旅館名はでてこない。

地図上で探すと、室津港を見おろせる位置にあるのは「きむらや」という宿一軒のようだ。

司馬遼太郎は本の中でかなり詳しく室津の歴史についてページを割いています。

奈良時代の山部赤人がこの室津の唐荷島を読んだ歌や、平安時代高倉天皇(高倉院)や平清盛がこの室津に泊まった話、法然上人が幽閉された寺、そして江戸時代の参勤交代の大名が止まった本陣跡など、僅か1泊しただけなのに、実に詳しく述べています。

恐らく週刊朝日に掲載する時には、自宅でかなりの文献を調べて書き上げたものと推測されます。

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山で囲まれた室津湾は栄養豊富で静かな湾として牡蠣には最適な環境です。

一年牡蠣なので、クセがなくスッキリした味わい、貝柱の甘みが印象的です。
加熱しても身縮みが少ないのが特長です。 旬の時期は11~5月。

毎年5月頃に種付けをし、その年の11月下旬頃にはプリプリの状態に育ち収穫ができることから、一年牡蠣と呼ばれています。

約半年で成長し出荷できるのは、過密養殖を防止し、牡蠣棚を毎年移動させ栄養を行き届かせるこだわりも大きな理由のひとつです。
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プリプリとした食感と濃厚な味わいが特徴の海の恵み、カキ。

農業の現場では、そんなカキを食べた後に残る貝殻「カキ殻」が肥料として再利用されています。

塩抜きした貝殻を焼いたり乾燥させたりした後、土壌に混ざりやすいように細かく砕いた肥料で、主成分は炭酸カルシウムです。

100%天然素材に由来する有機石灰肥料として活用されています。

カキ殻の最大の特徴は、ほかの石灰肥料に比べて効き目がおだやかなこと。

保証成分のアルカリ分は消石灰が60~75%程度、苦土石灰が50~60%程度なのに対し、カキ殻は40~50%と低く、じわじわと効き目があらわれるタイプの肥料です。

即効性はないものの、消石灰のように水と反応して熱をもつことがなく、やりすぎによる生育障害も起こりにくいので、安心して使うことができます。

旧御津町(みつちょう)のマンホールの蓋。

丸い蓋を大きく3分割している形は御津町の町章で、 その中に町の花ウメ、町の木ヤマモモ、瀬戸内海の波と波頭を配したデザイン。

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童謡「赤とんぼ」のふるさと 龍野


『播磨国風土記』によれば、龍野の由来は「『野見宿禰がこの地で没し、出雲から多くの人が来て、揖保川の石で墳墓を作るため野に立ち並んだ』という故事から『立野』と呼ばれ、『龍野』に変化した」、とされている。

龍野の地名起源は野見宿禰
この地で病没した野見宿禰の墓を建てるために人々が野に立ち(立つ野)手送りで石を運 … 続きを読む →

画像は隅櫓(模擬)。

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龍野の地は江戸時代初期、姫路藩池田氏の領地であったが池田利隆の死に伴いこの地に本多政朝が入封、龍野藩が立藩した。以後、諸氏の支配や天領を経て、最終的には脇坂家10代200年の治世の後維新を迎えた。

これにより城下町が形成され、龍野藩の城下町となった。
現在の市街地にも城下町の町割りが残る。

播磨の小京都 龍野城
龍野城は、標高210mの鶏籠山山頂の山城として築かれた時代と、現在の地、山麓を含 … 続きを読む →

画像は龍野城(霞城)の大手門。

龍野城は鶏籠山(けいろうさん)の山城と山麓の平山城とのニ期に分かれます。

山城は約500年前赤松村秀(あかまつむらひで)によって築かれ、現在の平山城は寛文(かんぶん)12年に信州飯田から脇坂安政公(わきざかやすまさこう)が移って築城したとされています。

寛文12(1672)年、脇坂家3代目老中堀田家から養子の安政が信濃飯田から、揖保川に朝夕深い川霧がたつ龍野に移る。

この地で200年、維新まで生き延びる。
しかし5万3千石の石高は変わらず、参勤交代の費用は倍以上。

安政実兄の改易蟄居もあり、決して割の合う国替えではない。
のちに老中もつとめる格式と経済力のために知恵を絞る。

結果、江戸期日本を代表する醤油醸造、明治期童謡赤とんぼの詩人三木露風が生まれる町並みが醸成されたのだ。

龍野藩主脇坂氏の上屋敷跡に建つ聚遠亭
聚遠亭(しゅうえんてい)は龍野藩主脇坂氏の上屋敷跡にある歴史的建造物および庭園。 … 続きを読む →

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白壁が残る道の北側にはご覧のような赤レンガの煙突があります。

外観の意匠も凝っているこちらの建物は、龍野醤油協同組合の事務所として大正期に建てられたもの。

ここも国の登録有形文化財になっていて、現在は「大正ロマン館」として観光案内所などが入っています。

如来寺

533年(天文2年)に当案賢正を開山として創建された。
1672年(寛文2年)には龍野藩主脇坂氏の菩提寺となった。

1730年(享保15年)に宝鏡寺門跡から山号「松龍山」を賜った。

風情のある落ち着いた街並みが残る龍野の街、ゆっくり観光して歩くにはいい街だ。

童謡の里龍野
春の盛り、日本のうた“赤とんぼ”の作詞者である詩人三木露風の生誕地龍野を訪れた。 … 続きを読む →


醤油屋さんの高い煙突は何処にいても見渡せ格好の目印。

小林家住宅の土蔵は江戸時代前期という現存する最古クラスのものらしいです。

觜崎屋本店

たつの市で人気の老舗の和菓子屋さんです。

バス2台のツアーですが車内で案内されたこともあり、たちまち売り切れ。

非常に興味深い望楼付属町家。
ツシ二階建てから本三階建てへの過渡期的町家で、稀に京都市内などで見かける。

路地を隔てて見るとなかなか風情のある景色。

醤油の三大名産地 日本全国で作られている醤油ですが、代表的な産地は、千葉県、兵庫県、香川県の小豆島になります。

全国の生産量の約15%を占め、1位の千葉と合わせると日本の醤油の半分はこの2県で生産されていることがわかります。

兵庫県では主に色が淡く、料理の色や味わいを活かす「淡口醤油」が造られています。もともとは一般的な濃口醤油を造っていたのですが、現在の龍野市で江戸時代から淡口醤油が造られるようになりました。

播磨平野の豊かな小麦、山間部に産した質のよい大豆、赤穂の塩、そして清らかで鉄分の少ない川の水が淡口醤油作りに適していたそうです。

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醤油のうんちく

醤油の元祖は紀州の湯浅

ちなみに現在のような醤油は紀州、和歌山県湯浅で鎌倉時代の1254年に誕生したと言われています。

臨済宗禅寺の僧である覚心(法燈国師)が、中国で金山寺味噌の醸造法を学び、それを湯浅に伝え、その亀山時味噌から醤油が生まれたそうです。

五大産地には入っていませんが、湯浅が醤油の元祖です。

野田の醤油の始まりは永禄年間(1558-1570年)。

龍野の醤油の始まりは天文年間(1532~54年)、天正年間(1573-1592年)、2つの説があります。

小豆島の醤油の始まりは文禄年間( 1592 ~ 1595 )。

銚子の醤油の始まりは元和2年(1616年)。

大野醤油の始まりは元和年間(1615~1623)。

五大産地の内、野田だけは紀州との関係がわかりませんでしたが、他の産地はいずれも、どこかの時点で紀州の醤油づくりの影響を受けています。

龍野は紀州に醤油をもたらした覚心が、湯浅の後、龍野にも醤油のつくり方をもたらしたと言われています。

小豆島で醤油が作られるようになったのは、大阪城築城のために、小豆島に石材を切り出しに来た採石部隊が携帯していた紀州湯浅の醤油だったとか。

その醤油に興味を持った島民が湯浅に渡って醤油づくりを学び、醤油をつくりはじめました。

銚子で醤油が作られ始めて、しばらく後の、1700年(元禄13年)、紀州から移住した濱口儀兵衛がしょうゆづくりを盛んにしました。
濱口儀兵衛は現在のヤマサ醤油の当主のご先祖様です。

大野醤油は、加賀藩三代藩主前田利常に命ぜられた直江屋伊兵衛が紀州湯浅で、醤油のつくり方を学んできました。
直江屋伊兵衛は大野醤油の直源醤油のご先祖様です。

大手メーカー6社

2020年時点で、大手メーカー 6 社で国内流通する醤油の約 60 % を生産している。

キッコーマン(千葉県野田市)[注釈 1] – 2018年時点の国内シェア 28.6 %
ヤマサ醤油(千葉県銚子市) – 2018年時点の国内シェア 11.7 %
正田醤油(キッコーショウ)(群馬県館林市) – 2018年時点の国内シェア 6.5 %
ヒゲタ醤油(東京都中央区)[注釈 2] – 2018年時点の国内シェア 5.1 %
マルキン醤油[注釈 3](香川県小豆郡小豆島町) – 2018年時点の国内シェア 4.0 %
ヒガシマル醤油(兵庫県たつの市) – 2018年時点の国内シェア 3.9 %

西日本に知られた淡口醤油中心の有名なメーカーとして、ヒガシマル醤油がある。
一方で、和歌山県では古くから濃口醤油が主流となっている。

現在、国内で生産されているものの大半が本醸造であり、またこの濃口醤油が大半を占める。

「本醸造」の条件は、大豆、麦、米等の穀物を蒸煮し、麹菌を用いて作成した麹に、塩水または生揚げを混合して発酵・熟成させたものを指す。

麹に、蒸した米や甘酒を添加したり、分解を促進するための、セルラーゼ等の酵素を添加することも許されている。

ただしプロテアーゼを除く。
JAS特級の条件には「本醸造であること」という項目も含まれているため、特級醤油であれば常に本醸造醤油である。

都道府県別では、キッコーマン(野田市)、ヤマサ、ヒゲタ(いずれも銚子市)等の大手が存在する千葉県が34%、ヒガシマル(たつの市)が存在する兵庫県が16%と上位2県で半数を占めているが、日本各地に中小メーカーが存在する。

なお、現存する最も古いメーカーは、室次(福井県福井市)である。
うすくち(淡口)

汁物、煮物、かけうどんつゆなどの料理用に、特に近畿地方で多用される。

近畿の料理は昆布出汁を多用し、昆布の風味が失われないよう香りの薄いものが求められた。

また濃口醤油を使うと料理の色が黒くなる(うどん汁が大阪では薄色で、東京は濃く黒っぽくなるのは醤油の色の違いである)ので、素材の彩りを生かす京料理などに透明なものが好まれた。

塩分濃度は濃口より1割ほど高い。
濃口よりも原料の麦を浅く炒り、酒を加える。

仕込み時には、麹の量を少なく、仕込み塩水の比率を高くする。

圧搾前に甘酒を加えることもある。酸化して黒みが出ると価値が低いとされているために濃口醤油より賞味期限が短い。

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