朝から降り続く雨は止みません、夜の散策はあきらめ明日の早朝散策に切り替えることとした。
今日の泊りはホテルタイセイアネックスです。
鹿児島市の玄関口・鹿児島中央駅へ降り立つと、江戸時代の末期に国禁を犯して海外留学を果たし、新生日本を建設する原動力となった薩摩藩英国留学生をモチーフにした銅像『若き薩摩の群像』が観光客を出迎えてくれます。
高さが12.1mあって、彫刻家で日本芸術院会員の中村晋也氏(1926~)によって、昭和57年(1982年)に制作されました。
薩英戦争を経験した薩摩藩は、西洋の技術に及ばない事を痛感し、和平を結び、技術の導入を図りました。
19人の藩士を藩費で鹿児島県いちき串木野市の羽島より密航出国させました。
帰国後、彼らはそれぞれ多大な功績を残しました。
鹿児島の朝です。
まだ外灯の点る、けっこうな早い時間であります、と言っても大阪より日の出が約30分遅く7時30分くらいでないと夜が明けません。
鹿児島市内を流れる甲突川に架かる高見橋の高欄の一部に子供達が健やかでたくましく育つ姿と、強さと厳しさを秘めながら、優しく子供達を見守る母を象徴する「母と子供の群像」。
優しく子供達を見守る母の像。
大久保利通銅像
為政清明(いせいせいめい)- 藩閥意識を超えて新生日本の近代化に尽くす –
大久保利通は明治草創期の指導的政治家です。
1830年(天保元)に生まれ、幼名は正袈裟(しょうけさ)、通称は一蔵、号を甲東(こうとう)と称しました。
幕末期、薩摩藩下級武士のリーダーとして藩論を尊皇にまとめる一方、最後の当主島津忠義の父久光の信頼をえて、藩政の改革にも手腕をふるいました。
=== 案内より ===
戦災復興記念碑
鹿児島市は、太平洋戦争末期における昭和20年3月18日以来8回の空襲により、実に市街地の93パーセントを焼失し、焦土の中で終戦を迎えた。
それから36年余、現在の市街地は、縦横にのびる明るい街路、緑あふれる広場、紺碧の空に林立するビル群、そして50余万の人口を擁する南日本最大の雄都として発展してきている。
=== 案内より ===
歴史ロード維新ふるさとの道にある武家屋敷。
鹿児島県書道会初代会長『堀井鶴畔』先生の書碑。
やっと日の出です、甲突川を紅く染めて陽が登る。
左に桜島がわずかに見えている。
大久保利通誕生地碑。
昨日と打って変わって今日は晴れです、桜島から陽が登る。
これからフェリーで桜島にわたります。
桜島 湯之平展望台は火口に最も近づける所で、活火山の息吹きが肌で感じられる。
目の前に迫った北岳の荒々しい山肌。
目を転じれば、錦江湾を挟んで西側には南九州最大の都市・鹿児島市の街並みが広がります。
天気がよければ北に霧島連山、南に開聞岳といった鹿児島の秀峰も顔を見せるのです。
中央の突き出た部分は大正大噴火で流れ出た大正溶岩原。
1月12日、大正大噴火から丁度100年を迎えたが、地下にたまったマグマの量は、100年前の水準に近付いており、次の噴火に備える時期に入りつつあるという。
雲が多くなり、雲の隙間から陽が射し錦江湾を照らす。
今バスは、桜島と大隅半島がつながった場所の辺りを走っています。
かつては文字通り島であったが1914年(大正3年)の噴火により大隅半島と陸続きとなったのです。
明治以前は2万人以上であった島内の人口は、大正大噴火の影響によって9,000人以下に激減。
その後も減少が続き、1985年(昭和60年)には約8,500人、2000年(平成12年)には約6,300人、2010年(平成22年)には約5,600人となった。