鉾町の名所旧跡

この記事は誤って消去してしまった記事の再掲です。
画像は2012年7月15日訪問時のものです。

宵山、宵々山で鉾を巡っていると多くの名所旧跡に行き当たる。

大政所御旅所、京都市下京区烏丸通仏光寺下る。
祗園会の神輿の3基のうち、素戔嗚尊(牛頭天王)と八王子との2基を「大政所」と称する(妃神奇稲田姫(くしなだひめ)の1基を「少将井」と称した)。

江戸時代には、大政所の神輿は、祗園社(八坂神社)を出て四条通を経て神泉苑へ渡御し、大政所御旅所で滞在していた現在は、町の人々により、八坂大神が祀られ大政所町の鎮護の社となっている。

悪王子社趾、京都市下京区東洞院通四条下る西側。
悪王子社は,素戔嗚尊を祀る神社と伝え,もともとは当地に祀られていた。

しかし慶長元(1596)年に豊臣秀吉の命により四条通寺町の祇園御旅所に移され,さらに四条通大和大路角に移った後,明治10(1877)年に八坂神社境内の本殿東側に移転した。
この石標は,悪王子社の跡を示すものである。

なお現在,当地周辺を元悪王子町というのはこれに由来している。

本居宣長先生修学地、京都市下京区綾小路通新町東入南側。
国学者本居宣長(1730~1801)は宝暦2(1752)年から同7年まで京都に遊学し,堀景山(1688~1757)に儒学を,武川幸順(1725~80)に医学を学んだ。
この石標は,堀・武川両名の塾跡を示すものである。

大原神社、京都市下京区綾小路新町東入ル西善長寺町。
祇園祭の綾傘鉾がここで、巡行の無事を祈って八坂さんの御祓いを受ける場所。
本社に伊弉册尊(いざなみのみこと)を祀っています。

三条烏丸御所跡、京都市中京区三条通烏丸西入南側。
平安京左京四条三坊九町に位置した三条烏丸御所は,三条烏丸殿・三条桟敷殿ともいい,三条南殿の名で総称することもあった。

三条南殿の最古の居住者は,堀河(1079~1107)・鳥羽(1103~56)両天皇の乳母であった藤原光子で,その息藤原実能(1096~1157)に受け継がれ,実能から鳥羽法皇に献じられ,その御所となった。

昭和62(1987)年発掘調査が行われ,平安時代後期の遣水跡・三条大路南側溝・建物跡などが検出された。
この石標は三条烏丸御所の跡を示すものである。

平安京左京四条三坊跡、京都市中京区三条通烏丸西入南側。
平安京・左京四条三坊九町に位置したこの地は、三条桟敷殿(床を持つ建物)として利用されたり、左大臣となった藤原実能の邸宅があったと、当時の貴族の日記に記述されている。

1988年の発掘調査によって、平安時代に作られた、島を伴う玉石敷の池のある庭園と景石、建物の柱跡等が発見された。

各構造からは瓦類や土師器、須恵器の他に釉薬をまぶした緑釉陶器、灰釉陶器、さらに中国から輸入された青磁、白磁等の上級貴族の所有物とされる物も出土された。

大黒庵武野紹鴎邸址
京都市中京区室町通四条上る東側
武野紹鴎(1502~55)は,室町後期の茶人で大黒庵・一閑と号した。
父は堺の有力町衆。24歳で上洛した紹鴎は,36歳で堺に帰るまで当地に居を構えた。

その間,三条西実隆(1455~1537)について古典・連歌を,村田宗珠からは茶の湯を学んだ。

茶の湯において紹鴎は,四畳半の侘び茶をさらに簡素化し小座敷などを創作し,村田珠光(1422~1502)から千利休(1522~91)への橋渡し役をはたした。

この石標は,武野紹鴎の邸宅跡を示すものである。
現地は菊水之井と呼ばれた名水のあった地でもあり,紹鴎もそれを求めてこの地に邸宅をいとなんだという。

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祇園祭へのアクセス、生き方歩き方

梅田方面からは阪急電車大宮駅か烏丸駅で下車
JR京都駅からは、地下鉄で国際会館方面に乗車し、3分の四条駅で下車

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