魚津城の戦いの運命の一日って意外と知られていないと思う。
それは、天正10年(1582年)6月3日落城を悟った上杉方の守将13人が自刃して果て、魚津城は落城し織田軍の勝利となった。
ところが、その前日の6月2日には京都の本能寺で織田信長が重臣・明智光秀によって討たれるという事件(本能寺の変)が起こっていたのだ、まさに運命の一日だった。
勝家らが信長の死を知ったのは翌4日といわれており、この急報に接した織田勢は全軍撤退した。
仮に籠城戦があと2日伸びていれば、事態はどうなっていたか予断を許さない戦いであった。
魚津の「しんきろうロード」
魚津は江戸時代以前から蜃気楼の名所として知られる場所です。
蜃気楼は、大気中で光が屈折し虚像が見える自然現象で、気温や風などの条件が整わないと発生しません。
蜃(大ハマグリ)が気を吐いて楼閣を描くと考えられたところから蜃気楼と呼ばれるようになったという。
道の駅は蜃気楼撮影のメッカ、本日の蜃気楼発生確率なるものが掲示されている。
護岸に三脚を並べ、のんびりと蜃気楼の発生を待つカメラマンたちがたむろしている、まことにのんびりした風景だ。
大正7年7月23日、北海道への米の輸送船・伊吹丸が魚津町に寄港した時、おりからの米価高騰に苦しんでいた漁師の主婦ら数十人が、米の積み出しを行っていた大町海岸の十二銀行の米倉庫前に集まり、「米の値段が高くなるのは、県外に米を持っていくから魚津に米が無くなるのだ!」と、米の積み出しを止めるように要求し、このため米の搬出は中止された。
この事件が新聞に報じられ、米騒動は近隣の村や町、1道3府32県に及ぶ全国的な米騒動に発展し、その後、内閣を総辞職に追い込む事態に発展した。
「ときわ松(初代)」は、古くから魚津城内にそびえ立っていたとのことで、上杉謙信公が植えたとも云われている。
しかし、昭和16年(1941年)の火災で焼失、焼け残った木の部分を木材にして、大町小学校の机などを作ったという。
今の松は植えなおしたもの。
上杉謙信公の歌碑、天正元年(1573)上杉謙信が越後の精兵を引き連れて越中へ進入し魚津城外でたむろしたときの歌。
「武士(もののふ)のよろいの袖をかたしきて 枕に近きはつかりの声」とある。
魚津城のジオラマ。
明治初期ごろまで、堀や土塁などが残されていたが、のちに破壊され当時を偲ぶものは何もない。
城址の様子は天明5年(1785年)の「越中魚津街惣絵図」に描かれており、これによると本丸とそれを三方から囲む二の丸が見てとれますが、二の丸は元々四方を囲むものであったと推定されます。
現在、その跡地には大町小学校が建っている。
画像は児童たちの作った魚津城の模型。
北陸街道、かつての魚津城の城下町、新川の政治経済の中心都市、北陸街道の宿場町および港町であった。
魚津のマンホールの蓋、ゴチャゴチャし過ぎていて、何が描かれているのかよくわからない。
中央に市章があしらわれ、外周の花は魚津市の花である“かのこゆり”だろう。
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魚津城へのアクセス、行き方歩き方
魚津市本町1-10-39
魚津ICより 車で10分
JR魚津駅より 車で10分
電鉄魚津駅より 徒歩3分