謙信も攻めあぐねた山岳に広がる巨城 七尾城

北陸

七尾湾が一望できる、石動山系の北端の標高300mほどの尾根上(通称「城山」)にあり、その尾根から枝分かれする行く筋もの大小の尾根にも無数の砦を配置した大規模な山城である。

「七尾」という名は「七つの尾根」(松尾・竹尾・梅尾・菊尾・亀尾・虎尾・龍尾)から由来されるという。
別名として「松尾城」あるいは「末尾城」と記した資料も残る。
これは城が七つの尾根のうち松尾に築かれたためである。
いずれも尾根づたいに配された曲輪を連想させる。


調度丸から主要部への登り口を見たところ。

石垣を接近してみたところ。野面積みであるが、実にしっかりしている。
500年もの風雪に耐えているのである。
畠山氏にはこのような石垣構築技術があったものだろうか。

寺屋敷から調度丸に上がっていく道。
これが本来の登城道であったものだろうか。
ここも草むした石段が続き、とてもいい雰囲気である。

山岳城の道は険しく難攻不落の昔を偲ぶ。

本丸の様子。
とにかく眺望がよくて気持ちのいい郭である。

山頂に建つ七尾城址の碑。

山城の歴史上重要な遺跡として、1934年(昭和9年)に、国の史跡に指定されている。
このような遺跡は他には若狭の後瀬山城しかない。
2005年(平成17年)には地中レーダー探査による七尾城の遺構調査が行われ、そこで柱跡などの遺構が確認された。

1577年(天正5年)に能登国に侵攻した上杉謙信に包囲されるが、一年にわたって持ちこたえた。
しかし、重臣同士の対立の末に擁立されていた若年の当主畠山春王丸が長続連、遊佐続光、温井景隆らの対立を収めることができず、結果七尾城は孤立し、最終的には遊佐続光の内応によって徹底抗戦を主張した長氏一族が殺害され、同年9月13日に開城された(七尾城の戦い)。

この際、上杉謙信が詠んだ漢詩「九月十三夜陣中作」は非常に有名である。

霜は軍営に満ちて秋気清し
数行の過雁、月三更
越山併せ得たり、能州の景
さもあらばあれ、家郷の遠征を懐ふ


本丸にある城山神社。

桜馬場跡(さくらばばあと)、「平時に軍馬を検分しその調練を検問した馬ぞろえの場所」

七尾城の石垣は、戦国期の山城に多い「野面積み」の工法を用い、背の低い石垣を何段にも築く技法が使われている。

桜馬場 の西側に位置する 温井屋敷跡。
遊佐氏 と同じく、七尾城主 畠山氏 を補佐する重臣の 温井氏の屋敷跡 と伝えられている。

温井屋敷跡 の南側にある 九尺石 。
その名のとおりの大きさの石で、七尾城 の鎮護のかなめ石 と云われています。

二の丸跡(にのまる あと)は、本丸に次ぐ第二の拠点となった曲輪であり、尾根の分岐点に築かれ、周囲には多くの曲輪が取巻いています。

畠山義忠公歌碑「野も山もみなうつもるゝ雪の中しるしはかりの杉の村立 畠山修理大夫(賢良)」。

七尾城史資料館(懐古館・飯田家) 
それほど大きい規模の資料館ではないが、能登畠山家縁の武具などや天目茶碗などの城跡・城下町跡からの発掘品が展示や、歴代城主の肖像がや系図などの復元など能登畠山氏について詳しく説明されている。

古くからの民家であり江戸時代に七尾城跡を護ってきた飯田氏の居館である懐古館も同時に見学できる。

七尾市出身の長谷川等伯の作品も所蔵しており、長谷川等伯展を開催している時期もあります。

七尾城中心部復元イラスト。
山上には本丸・桜の馬場・西の丸・二の丸・三の丸などの曲輪を配した。
また、菊、松、竹、梅、亀、龍、虎と七つの郭名があったので、七尾城と称したという。
城は尾根を切り開いて、いくつもの曲輪を並べた典型的な連郭式山城。

七尾城を立体的に見ることができる。

七尾城は現在も保存状態が非常に良く、当時の大規模山城の威容が分かるものとして昭和9年に国指定史跡に指定され、春日山城(新潟県上越市)・小谷城(滋賀県長浜市)・観音寺城(滋賀県近江八幡市)・月山富田城(島根県安来市)と共に日本五大山城の一つにも数えられています。

この歌のモデルとなったのは何処の城か、その有力な手がかりの一つは能登半島にある七尾城です。
現在七尾城山麓に城史資料館があり、その前庭に同じく高橋掬太郎作詞・細川潤一作曲になる「あゝ七尾城(唄・斎藤京子)」と並んで、この「古城」の歌碑が建っています。
かつて高橋掬太郎氏がこの地を訪れて「あゝ七尾城」を書いた後、その姉妹編としてこの「古城」を作ったと説明がありました。
同資料館に展示されている高橋氏の書簡には、この曲は特定の城をイメージしたものではないとしながらも、「あゝ七尾城」とのつながりを明記しておられるので、やはりこの城が最有力候補と言ってよいと思われます。
「松風騒ぐ丘の上 古城よ独り何偲ぶ・・・」

あゝ七尾城     作詞:高橋掬太郎・作曲:細川潤
 月影さゆる 夜の陣

  いななく駒よ 何思う

  更けて鎧の 袖を引く

  秋風さむし 七尾城

受付のカウンターに置いてあった一人静 (ひとりしずか)

名前は、源義経が好んだ「静御前(しずかごぜん)」という女性が一人で舞っている姿に見立てたことから。

小林一三翁七尾城吟行の句
稲架道を古城にゆくや秋の雨

七尾城の戦い

発端
発端は天正3年(1575年)8月に遡る。天下布武を目指す織田信長は、柴田勝家に越前侵攻を命じ、当時越前を支配していた石山本願寺の下間頼照ら1万2000人の宗徒を処刑させた。
これに対して越後の上杉謙信は危機感と不快感を抱き、それまで結んでいた信長との同盟を破棄し、翌天正4年(1576年)にはそれまで対立していた顕如と和睦し、共同して信長と対決することにしたのである。

天正4年(1576年)9月、謙信は2万と号する大軍を率いてまず越中に侵攻する。
越中は、もともと河内畠山氏が守護であったが、戦国時代に入ると守護代の神保氏、椎名氏らが力をつけて互いに覇権を争っていた。

能登畠山氏では畠山義綱が永禄9年(1566年)に家臣団によって追放され、その後釜として擁立された畠山義慶も天正2年(1574年)2月に不慮の死を遂げた。
これは一説に家臣の遊佐続光と温井景隆による暗殺とも言われている。

そしてその後を継いだ弟の畠山義隆も天正4年(1576年)に死去し、遂にはその義隆の子でまだ幼児の畠山春王丸が擁立されるなど著しく不安定であった。
大義名分は、かつて畠山氏から人質として差し出されていた上条政繁こと畠山義則を新たな畠山氏の当主として擁立し、かねてから乱れている能登の治安を回復するというものであった。

第一次七尾城の戦い

これに対して、能登城内では老臣筆頭長続連の指導の下、籠城戦と決定する。
続連が七尾城の大手口、温井景隆が古府谷、遊佐続光が蹴落口をそれぞれ守備することを決めた。
さらに続連は謙信の背後を撹乱するために、笠師村や土川村、長浦村などの領民に対して一揆を起こすように扇動したのである。

ところが、謙信もかつて一向一揆に悩まされた経験から一揆に関する情報網があり、これらを全て鎮圧した上で七尾城を囲んだ。
しかし、七尾城は畠山義総によって築かれた難攻不落さで縄張りも広く、春日山城にも匹敵する堅城だったためさすがの謙信も攻めあぐねていた。
そこで七尾城を孤立させるためにその支城群に矛先を転じた。

鹿島郡中島町谷内にある熊木城、珠洲市正院町川尻の黒滝城をはじめ、羽咋郡富来町八幡の富来城、羽咋郡富来町の城ヶ根山城、羽咋市柳田町にある粟生七郎の粟生城、鳳至郡柳田村国光にある牧野上総介の米山城などが、あっという間に落城し七尾城は孤立した。

しかしそれでも、堅城を頼む七尾城の続連らは降伏しなかった。

そして越年した天正5年(1577年)3月、小田原城の北条氏政が、謙信の領地である上野国に大軍を率いて侵攻しようとしたため、謙信は帰国することを余儀なくされた。
このとき、謙信は熊木城に三宝寺平四郎と斉藤帯刀・内藤久弥・七杉小伝次を、黒滝城に長景連を、穴水城に長沢光国と白小田善兵衛を、甲山城に轡田肥後と平子和泉を、富来城に藍浦長門を、石動山に上条織部と畠山将監をそれぞれ配置した上で一旦春日山に戻った。

謙信が越後に帰国すると、七尾城にあった畠山軍は即座に反撃を開始した。
熊木城は畠山の家臣・甲斐親家の謀略で誘いに乗った斉藤帯刀が裏切りを起こし落城、七杉小伝次は自害し、三宝寺平四郎と内藤久弥は討ち死にした。

富来城にも畠山の家臣・杉原和泉を総大将とした軍が押し寄せ、藍浦長門は捕らえられて処刑された。
また、続連自身も自らの居城であった穴水城を奪還すべく出陣するなど、畠山軍の攻勢は凄まじかった。

第二次七尾城の戦い

ところが閏7月には、北条軍をあっという間に破った謙信が、再び大軍を率いて能登に攻め寄せてきたのである。
驚いた続連は、慌てて奪い返した各地の城を放棄して全兵力を以って七尾城に籠もった。さらにこの時続連は領民に対して徹底抗戦を呼びかけ、半ば強制的に領民を七尾城に籠もらせたのである。

このため、城内は兵士と領民合わせて1万5000人近くの大人数となった。
数なら越後勢に決して劣らない人数だったのである。

ちなみに、このように七尾城で慌てて再び籠城戦の準備がなされていたとき、穴水城の長沢光国と甲山城の轡田肥後が七尾に攻め寄せたが、逆に敗退している。

七尾城は堅城であったが、籠城戦が続く中、城内で疫病が起こり、畠山軍の兵士たちは戦いではなく、疫病で死ぬ者が相次いだ。
また幼君の畠山春王丸も籠城中に死去してしまった。
窮した続連は、子の長連龍を使者として安土城の織田信長のもとに派遣し、後詰を要請すると共に小伊勢村の八郎右衛門に一揆を起こすように扇動した。
ところが、一揆はまたもや謙信によって事前に封じ込まれ、七尾城は落城寸前となった。
このような中で、かねてから親謙信派であった遊佐続光は、かねてからの謙信の呼びかけに応じ、仲間の温井景隆や三宅長盛(景隆の弟)らと結託して内応しようとしていた。
もともと彼らは、親信長派として実権を自分たちから奪った続連を快く思わず、しかもこのまま抗戦しても勝機が無いと踏んだからである。

そして9月15日、十五夜の月の日に城内で反乱を起こし、城門を開けて上杉軍を招き入れたのである。
この反乱によって続連とその子・長綱連、さらに綱連の弟・長則直や綱連の子・竹松丸と弥九郎ら長一族はことごとく討たれてしまった。
長一族で唯一生き残ったのは、信長のもとに援軍を要請に行った連龍と、綱連の末子である菊末丸のみであった。
こうして七尾城は謙信の手に落ちた。能登も完全に謙信の支配下に入ったのである。

戦いの影

この七尾城の戦いは、謙信にとっては重要な戦いだったようである。
謙信はこのとき『十三夜』の詩を作っている。
この勝利で能登を版図に加えた謙信は、結果戦力をさらに増強、西上して信長征伐の意思を示したのである。

一方、柴田勝家を総大将とした織田氏の援軍は七尾城救援に向ったが、途中で落城の報に接した。
9月23日の手取川の戦いでは、勝利の余勢を駆って加賀に進んだ上杉軍に攻め懸けられ散々に打ち破られている。

この後暫く能登は上杉勢力下だったが、謙信死後は能登国内の反上杉勢力や飛騨経由で越中に攻めこんだ織田勢力に圧迫され、信長の手に帰した。

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七尾城へのアクセス、行き方歩き方

JR七尾線七尾駅から市内巡回バス「まりん号」東回りで約13分「古屋敷町」下車、本丸まで徒歩約60分。