蘭丸の弟が築城 名城 津山城

地域

忠政は、慶長8年(1603)の入封当初は、美作国院庄に入りますが、領国支配拠点としての適地を探し求めた結果、美作中央部にあって古くから開けていた津山盆地のほぼ中心に位置する鶴山(つるやま)の地を選びました。

美作に入った森忠政は、居城地を古い歴史を持つ西方の院庄(いんのしょう)にしようと思い、築城工事に取り掛かりました。
ところが忠政の重臣井戸宇衛門がその普請を監督している現場に、藩主忠政の内室の弟・名古屋九衛門が来合わせ、突然斬り合いになり、二人とも傷ついて死んでしまいました。

二人は前任地の川中島にいた頃から犬猿の仲であったと言われます。
・・・というのが築城のエピソードです。
ちなみに名古屋九衛門とはあの出雲の阿国の恋人名古屋 山三郎のこと。

津山観光センター横の階段を上ってお城へ~!
津山城冠木門の前に入園券売場があります。
入園料は大人(高校生以上)300円。 小人(中学生以下)は無料。

この付近は、正門前あたりになり、NHK朝のドラマ「あぐり」のロケが行われた場所。
あぐりと森さんが出会った場所。

森家 家紋 「森 鶴の丸」。
出雲街道の通るこの地は、城下町が出来る以前富川の宿とよばれ宿の北には鶴山(つるやま)があった。

この鶴山に最初に築城したのは山名忠政である。
最初に津山藩の藩主となる森家の家紋が鶴だった為、城の名前に鶴が使えないという事情があったそうで、文字を当て直したのが『津山』の地名の由来です。

厩堀の西側、かつての外郭にある廐屋敷跡には屋敷風の便所が建っている。
外郭には屋敷が建ち並んでいた。

この石は近くの谷川の川底に沈んでいたもので、津山城築城時に切り出されたと思われる重さ約2トンの石です。

平成16年3月27日に谷川から引き上げられました。
「津山城石切場跡」の石と同じく、「矢穴」と呼ばれるくさびの穴が数ヶ所あいています。

津山城跡に桜を植えた人 福井純一
鶴山公園は、岡山県内で唯一「全国桜名所百選」に選ばれている桜の名所である。
この桜の植樹に尽力したのが、福井純一である。

純一は、明治11年(1878年)津山市本町2丁目に生まれる。
津山城器小学校から同志社中学に進むが、父が病で倒れたため、中退して帰郷する。
町会議員から市制とともに市会議員、昭和7年、第3代目の津山市議会議長に就任する。
明治32年(1899年)、県有地だった津山城跡は、公園にするという条件で津山町に払い下げられた。

明治33年(1900年)から津山町が公園化に手をつけ、純一も桜植樹の中心的な役割を担うことになる。
「城跡を桜で埋めるなんて、阿呆の沙汰じゃ」と揶揄されながらも、私財を投じるとともに寄付集めに奔走する。

明治40年(1907年)ころには、公園としての様相が一応整い、その後、大正4年(1915年)と昭和3年(1928年)に御大典記念植樹が行われた。
津山城跡が桜で覆われるようになったのはこのころからである。
純一は、昭和32年(1957年)、生涯の大半を津山城跡の桜にかけた80年の生涯を終えた

津山城を築いた森忠政は、森家の六男として生まれながら、森家の家督を継いでいます。
忠政や蘭丸の父、森可成は織田信長の家臣で、美濃金山城主でした。

「姉川の戦い」で、長兄、可隆が亡くなり、その半年後、父、可成が「浅井、朝倉連合軍との戦い」で討死、その後、次兄の長可が信長に認められ、大名として家督を継ぎます。
その頃、蘭丸も小姓として信長の寵愛をうけていました。
蘭丸が大名になる頃、下三人の弟、坊丸、力丸、千丸(忠政)が小姓として、信長に仕え始めます。

でも、千丸はまだ13歳で精神的にも幼く、同僚の小姓達に軽くあしらわれ、ある日、先輩小姓を扇子で殴り、信長に千丸だけ母の元に返されてしまったのです。
でもこれが、森忠政の運命の分かれ道。

3カ月後、「本能寺の変」で、蘭丸、坊丸、力丸の3人の兄たちは討死してしまったのです。
そして、この2年後、家督を継いでいた次兄の長可も、「小牧、長久手の戦い」で戦死。
ここに、5人の兄と父、皆戦死してしまい、忠政15歳の時、家督を継ぐ事になったのです。

寛永11年(1634)三代将軍家光に随伴して津山より上京するが、食傷により急死す。
享年65歳。
なお、この像は津山市小田中、森家の菩提寺本源寺にある木像を基としたものである。

では、南側、登城口の石段から登ってみます。

♪「鐘つかぬ 里は何をか 春のくれ
<松の段・松尾芭蕉句碑>句意は「入り会いの鐘をついてこそ風情があるのに、この里は鐘もつかぬ」という芭蕉の奥の細道への旅での作。
城跡の情緒とは違う句。

表坂から冠木門から三の丸へ。 
表中門跡の高石垣に見とれながら、石段を登ると、二の丸四脚門(現中山神社神門)が立ちふさがる。 

本の丸へは復元された備中櫓を仰ぎ見て、切手御門の石段を経て、やっと本の丸入口の表鉄御門へ。

経路が複雑で、建物に囲まれていたのでしょうか。
まるで石の迷路みたいです。

野面積みで角部は算木積になっているが、中央部のふくらみが気になる。

ここは石垣が見事です。
兵庫県の竹田城といい勝負をすると思う。
巧妙な縄張りと高い石垣、見事です。

備中櫓が見えてきました。
津山の昔の国名は、備中ではなく美作(みまさか)。
それなのになぜ備中櫓という名称なのでしょうか?

それは、森忠政の長女と四女が嫁入りした娘婿、鳥取藩主の池田備中守長幸に由来しているそうです。
殿さまが出てくる本丸御殿男性社会と通路でつながっており、藩主と家族のプライベートな櫓であったと考えられてます。

二の丸から仰ぎ見る備中櫓。

備中櫓を真下から見る、見事な高石垣だ。

裏切手門は本丸の西側ほぼ中央に開かれた幅狭い埋門で、裏鉄門から石段をかけ登ったところにあった。

備中櫓下の見事な高石垣。

天守閣跡からの地要望を楽しむ。

津山城は慶長8年(1603)に森忠政によって築城されました。天守閣をはじめとする建物は明治維新まで残されていましたが、その後惜しくも解体されてしまいました。天守閣は破風がない独特の形をしていたことが古写真から分かっています。

津山城は慶長8年(1603)に森忠政によって築城されました。
天守閣をはじめとする建物は明治維新まで残されていましたが、その後惜しくも解体されてしまいました。

天守閣は破風がない独特の形をしていたことが古写真から分かっています。

津山城跡の「七番門虎口」復元
この虎口は天守閣の北にあり、通る際は取り外しできる木製階段を使用していたそうで、また津山城主が城の北にある庭園・衆楽園に出掛ける際にこの七番虎口を使っていた記録が残っているそうです。

明治6年(1873年)廃城令により大蔵省管理となり競売される。
明治7年 – 明治8年(1874年 – 1875年)天守・櫓などの建物が悉く破却される。

天守台から見える城下町、手前が宮川、はるか向こうを蛇行するのが吉井川。
城郭の形式は梯郭式平山城。

津山盆地の中央部に位置する。
城の東部を流れる吉井川支流の宮川及び丘陵の天然の断崖を防御線に取り入れている。

二の丸、東側は濃い緑に包まれ落ち着いた雰囲気です。

本丸、二の丸、三の丸を階段状に配した「一二三段」(ひふみだん)と呼ばれるこの城の縄張りは有名で、特に遠くから見ると非常に美しく雄大な姿で、その縄張りを確認することができる。

裏鉄御門~裏中御門~裏下門へと搦め手ルートも、表坂からの登城ルートに決して引けを取らない。 
むしろ搦め手の方が楽しめるかもしれない。

森家は忠政のあと四代続くが、四代長成に嗣子が無かったために幕府に領地を没収された。
元禄十一年(1698)、家康の二男結城秀康を家祖とする松平宣富が津山城主に封じられた。
松平家は廃藩を迎えるまで続くが、幕末の藩主九代慶倫は、朝幕の間にあって斡旋に努めた。

本丸には大小の櫓31棟・門15棟(天守曲輪含む)を連ね、内側の平坦面に約70の部屋を有する御殿を構えました。
限られた敷地を有効に使うために、備中櫓や表鉄門などを御殿の一部にあてているのが特徴です。

太鼓櫓跡。

石垣と一体化した楓の古木。
何とも風格のある風景です。


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津山城へのアクセス、行き方歩き方

JR津山駅から徒歩15分
中国自動車道津山インターチェンジまたは院庄インターチェンジから約15分