藤堂高虎が復興した津観音

東海

浅草観音、大須観音と並んで日本三大観音の一つとされる。
寺号は詳しくは恵日山観音寺と称する。

江戸時代に入ると、慶長13年(1608年)藤堂高虎が伊予国から転封せられて新に津藩主となった際に、観音寺が津城の鬼門に当たるとして再建を大いに助けたとされる。

付近は県を代表する古くからの繁華街、歓楽街を形成している。

『勢陽雑記』(近世の地誌)等が伝える伝承によれば、創建は奈良時代の初め、和銅2年(709年)に伊勢阿漕ヶ浦の漁夫の網に聖観音立像がかかり、これを本尊として開山したのが始まりであるという。

藤堂高虎公が三代将軍・徳川家光の病気平癒祈願のために寄進したとされるのが津観音仁王門。

しかし度重なる災害に遭ったためか、以後中世までの記録が一切残っていない。

仁王門から入って正面にあるのが観音堂。
こちらでお参りをします。

お蔭参りの際には道中観音寺に立ち寄って参拝することが習いとなり「津に参らねば片参り」と言われる由縁となった。

江戸時代、遠路の者にとってお蔭参りはまさに一生に一度の大旅であった。

現在のように交通手段が整備されていなかったため、道中何らかの理由で旅を中断しなくてはならない者は、観音寺にて国府阿弥陀如来と、伊勢神宮の方角を拝んでから帰路についたと言われている(このような要所は日本各地に存在していた)。

この五重塔は2001(H13)年5月に建立されたもので、仏法興隆と世界平和を祈願しているとのこと。
三重県内では初めての純木造五重塔です。

後に「女傑」と称されて、女性ながら藤堂高虎らと並んで「家康六人衆」と讃えられた於奈津ですが、その女傑ぶりを最初に示したのが、奉公に上がって1年目のことです。

1597年、二条城で家康が入浴中に刺客が潜入しましたが、於奈津の機転と機敏な対応によって刺客は取り押さえられました。
この殊勲によって於奈津は側室の地位に取り立てられました。

1616年家康は75歳で死去、於奈津は36歳、その後も江戸城三の丸の屋敷にあって家光をよく補佐し、1660年80歳の人生を閉じました。

その功に報いてか、於奈津の方は側室のうち唯一人小石川伝通院の徳川家墓所に葬られています。

津観音は藤堂高虎が復興したものですが、この銅鐘は於奈津が寄進したものです。
現在の鐘楼堂は1984年に再建されたもの。

護摩堂
境内で柴灯護摩を焚き、護摩堂では夜通し息災護摩を修しています。

津のマンホールの図柄。
その昔「日本三津」のひとつ「安濃津」と呼ばれた海の町「津」は、現在も日本最大級のマリーナを有していることから、津の海をイメージできるヨットを中心にし、周囲に市の花木である「つつじ」を配してデザインしたもの。

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津観音へのアクセス、行き方歩き方

津観音公式サイト
住所:津市大門32-19
電話:059-225-4013

JR・近鉄「津駅」から「三重会館」方面行き三交バスで約5分・「京口立町」から徒歩で約3分