木屋町は京都の歴史や風情を感じる街た。
多くの歴史遺産を残しながら現代が息づくそんな木屋町を春風に吹かれながら散策した。
木屋町通(きやまちどおり)は、京都市の南北の通りの一つ。
北は二条通から南は七条通まで。
先斗町の西にあり、高瀬川の東側に沿っている。
高瀬川起点には一之舟入跡が残され高瀬舟が展示されている。
このような舟入は二条から四条の間に七ヶ所あったが埋め立てられ今は無い。
舟運は明治に至るまで用いられ、最盛時には240余隻の就航をみたという。
京都市上京区の鴨川右岸・荒神橋付近より水を取り入れ、鴨川右岸河川敷を鴨川に沿って流れるのが「みそそぎ川」で、夏場には鴨川畔の料亭が競って川床をしつらえる、あの水路である。
みそそぎ川は取水口よりしばらくは鴨川公園緑地の下を暗渠となって流れているが、対岸に疏水の流れ込みを見るあたり・中京区の京都市職員会館の東付近で地表流を現す。
この流れは鴨川沿いの歩道より少し高めに導かれ、中京区東生州町に至り河川敷から市中へ向けて一部水を分けて取り入れられる。
ここが高瀬川の始まりであり、旧角倉了以邸(現・がんこ高瀬川二条苑)の庭に引きこまれたのち、木屋町通り沿いを南下し繁華街を貫いて流れてゆく。
ここから河原町十条の鴨川陶化橋付近で再び鴨川に注ぎいったん流程を終えるが、高瀬舟は鴨川を斜めに突っ切り、伏見西郊で再び運河を走り港に至っていた。
角倉了以によって作られた高瀬川源流庭園の由来。
店内で高瀬川源流庭園を見ることができる。
がんこ高瀬川二条苑の前に立つ角倉了以別邸跡碑。
木屋町は慶長年間の角倉了以の高瀬川開削に伴って整備された。
開通当時は、「樵木町」(こりきまち)と呼ばれていたが、高瀬舟が運んでくる材木の倉庫が立ち並ぶようになったため、いつしか「木屋町」という名称に変わったという。
木屋町周辺に残されている紙屋町、鍋屋町、米屋町などの地名は、当時の賑わいを彷彿させる。
高瀬川の北端ここ木屋町二条は、島津製作所の創業の地。
内部の見学可。
兵部大輔大村益次郎公遺跡は、大村益次郎が襲撃された宿所の跡を示す石碑。
石碑は、高瀬川沿いである木屋町通(きやまちどおり)に立ち、幕末維新のとき木屋町通には、土佐藩や長州藩などの諸藩の京都藩邸、尊攘派志士の寓居などが立ち並らび、藩士や浪士の通行も多く、天誅とする襲撃事件も多かった。
佐久間象山遭難碑
佐久間象山は信州松代藩下級武士の子供として生まれたが、藩主真田幸貫の命により蘭学・砲術を学んだ。その後安政元年、吉田松陰の密航事件に関与して蟄居していたが、開国論を主張して京都へ入った。この地で攘夷論者の襲撃を受けて暗殺された。
大村益次郎遭難碑
大村益次郎は長州の生まれ、その後村田家へ養子に入って医者になり、村田蔵六と名乗っていた。その後宇和島にいたのを高杉晋作に呼び戻されて奇兵隊の指揮を任された。明治維新後、兵部大輔となって近代軍隊を築こうとしたが、これに反感を抱く旧武士達の恨みを買い、ここで襲撃され、重傷を負った。
大阪の病院へ運ばれて手当を受けたが、その後亡くなった。
料理旅館「幾松」は、桂小五郎とその恋人幾松が共に住んでいた住居跡。
桂は、当初長州藩邸に住んでいたが、次第に藩邸に住む人数が増え手狭になったため、近くに家を借り、藩に寄宿届を出して住むようになった。
このとき、兼ねて恋仲の幾松を落籍させて一緒に暮らすようになる。
ここは、藩邸からは高瀬川と木屋町通を挟んですぐ向かい側にあり、長州藩控屋敷という位置づけでもあったようだ。
現在、「幾松」には、新選組に踏み込まれたときに桂をかくまったという長持ちや、釣り天井、抜け穴などが残っている。
加賀藩邸跡(かがはんていあと)は、江戸時代初期から明治維新まで、現在の木屋町通御池南に、加賀藩(石川県)の藩邸があったところ
高瀬川の西側から河原町通の間に広い敷地が有った。
藩邸には留守居役が詰め、町人の御用掛が指名されて連絡事務が行われていた。
高瀬川を下るとすぐに広い御池通りに出る。
信号を渡らないで右へ河原町通りに出ると角が京都ホテルオークラである。
このホテルの敷地に長州藩邸があった。
右へ回り込んだホテルの正面付近に桂小五郎の銅像がある。
土佐藩の勤王家で、土佐勤王党を組織した武市半平太が住んでいた「四国屋丹虎」の跡。
現在は、料亭「金茶寮」となっていて、武市ゆかりの間が現存している。
ちりめん洋服発祥の地(ちりめんようふくはっしょうのち)は、田中佐起三が、ちりめん素材を使った洋服を創業した場所。
木屋町通に、武市瑞山先生寓居跡・吉村寅太郎寓居跡と並んで石碑が立つ。
SAKIZOは1972年、田村佐起三が創業した京都発のブランド。
ちりめん素材を使い、洋服を作ることを企画しちりめん洋服を世に送り出した。
当時、20代女性を中心に一大ブームとなった。
江戸時代中頃にはこの通りを往来する旅人や商人を目当てに、料理屋や旅籠、酒屋などが店を構えるようになり、酒楼娯楽の場へと姿を変えた。
幕末には勤皇志士が密会に利用したため、坂本龍馬や桂小五郎らの潜居跡や事跡の碑が繁華街のあちこちに立っており、大村益次郎や本間精一郎、佐久間象山などが殉難している。
木屋町の御池~三条~四条間は、現在では若者にも人気のある繁華街となっている。
スナック、料亭などに加え、各国料理レストランなど所狭しと並んでいる。
三之船入跡には川端にテーブルを出した店があったりする。
三条小橋に立つ、佐久間象山・大村益次郎遭難の地の石碑。
三条小橋を西にすこし行ったところに、旅籠・池田屋があった。
ここは幕末史を転回させた大事件・池田屋事変の現場。
町屋がなくなって以降はさまざまな業態の店となって、今は碑を残すのみである。
元の高瀬川に戻り、三条小橋を渡ると木屋町に面して小さなお寺がある。
瑞泉寺である。
1611年(慶長16)角倉了以が豊臣秀次とその一族の菩提を弔うため建立した寺瑞泉寺。
瑞泉寺の前を少し南へすぐの橋で高瀬川を渡ると右角の家が坂本龍馬が潜伏していた家である。
昭和4年以前の三条小橋の写真が見られます。
明治28年以前、明治38年頃の木屋町三条を知ることができます。
この付近で川面に葉を垂らす柳は、「花咲き花散る宵も銀座の柳の下で」と歌われた、銀座に移植された「六角柳」が里帰りして植樹されたものという。
恵比須橋は旧名「納屋橋」、この先は三条通。
先斗町通と鴨川の間に建っている劇場で、劇場建築の名手、大林組の木村得三郎の設計
非常にレトロな感じで、六角形や八角形と言った幾何学模様の窓枠や、スクラッチタイルの外壁が印象的。
ここから西方、この高瀬川と河原町通の間、江戸時代後期に、彦根藩邸があった。
藩邸がおかれたのは比較的新しく、19世紀の初めからである。
なお藩邸の北側、南側ともに、高瀬川の舟入(ふないり)があった。
中京区木屋町通大黒町。
さらに高瀬川に沿って南へ歩くと「土佐藩邸跡」の石碑があり、川向こうが立誠小学校である。
この学校の敷地に土佐藩邸があった。
その手前の道が蛸薬師通りである。
ここを入って河原町通りへ抜けるが、その手前に土佐稲荷の小さな祠がある。
明治2年(1869)、三条河原町あたりに開校した下京第六番組小学校が、明治10年に立誠という名前に代わり、大正期に火災で類焼したため、昭和2年、現在地に新築移転した。児童数の減少に伴い他の学区と統合され、平成5年に廃校となる。
このあたりは、一筋裏側へ踏み込むと、かなり環境の悪い地域です。
飲み屋が多いのはまだしも、ピンクサロンが立ち並び、客引きがうようよ。
木屋町通りの名所旧跡の説明版。
画像はクリックすると拡大します、散策の参考にどうぞ。
角倉了以翁顕彰碑
太いまゆ、大きなくわが印象的な角倉了以の胸像(京都市中京区)
桜並木が続く木屋町通。元立誠小の玄関脇に、大きなくわを手にした角倉了以の胸像がある。
「高瀬川開削三百七十五年記念」として一九八五年に建立された。
角倉了以と聞けば、真っ先に思い出すのが大堰川(おおいがわ)の開削だろう。
丹波から大阪への水上輸送ルートを確立、京都の発展に大きく貢献した。
大堰川開削の実績から、高瀬川も任された。
工期は一六一〇-一四年。鴨川から水をとり、二条から伏見までの約十キロに運河を造った。
大正時代まで、この高瀬川が京都の物流を担ってきた。
元・立誠小学校の建つ地は、映画に深い縁を持つ場所です。
明治30年にフランスからリュミエール兄弟の発明したシネマトグラフ(映写機兼カメラ)とその興行権、フィルムを持ち帰った稲畑勝太郎(1862~1949)が、この地(当時、京都電燈株式会社)で日本で初めて映画の試写実験に成功しました。
それは同時に映像メディア、映画産業の始まりでもあり、これを機に映画は20世紀を代表する国民娯楽として成長していきました。
本間精一郎は、越後寺泊出身の浪士で、清川八郎らと共に勤王の志士として活躍した人
京都を中心に活動し、最も過激な志士の一人として知られる様になるが、一面軽率な面があり、仲間から疎んじられる事もあったようだ。
京都挙兵計画などに関係したが、1862年(文久二年)勤王派の同士から幕府に通じたという誤解を受け、木屋町で岡田以蔵、田中新兵衛等に襲われ命を落としている。
享年29歳。
桝屋喜右衛門こと古高俊太郎が、薪炭商を営んでいた場所。
古高は梅田雲浜の弟子であり、早くから勤王活動を行っていた。
特に、長州藩との繋がりが深く、八・一八の政変の後それを新選組に探知され、1864年(元治元年)6月4日捕縛されるに至る。
店からは、多数の武器と重要な書類が押収され、翌日の池田屋事変を引き起こすきっかけとなった。
現在では、料亭志る幸となっている。
木屋町通りが四条通に出るところに喫煙コーナーがあります。
愛煙家にはホッとする場所ではないでしょうか。
また、ここには木屋町通りにある名所旧跡の説明版があるので要チェックです。
付近では舞妓さんの姿もよく見かけます。