「金剛峯寺」という寺号は、明治期以降は1つの寺院の名称になっている。
しかし金剛峯寺の山号が高野山であることからも分かるように、元来は真言宗の総本山としての高野山全体と同義であった。
空海が時の嵯峨天皇から高野山の地を賜ったのは弘仁7年(816年)のことであった。
空海は、高い峰に囲まれた平坦地である高野山を八葉蓮華(八枚の花弁をもつ蓮の花=曼荼羅の象徴)と見なし、山上に曼荼羅世界を現出しようとしたものである。
弘仁7年(816年)、高野山を賜った空海は、翌年から弟子達に命じて伽藍の建立に取りかかったが、交通不便な山中のことで、工事ははかどらなかった。
空海の在世中に完成した堂宇はごくわずかであり、無論、当時の建築物は現存していない。
空海の他界後、弟子であり実の甥でもあった真然が約20年をかけて根本大塔などの伽藍を整備した。
「金剛峯寺」には寺紋が2つあります。
一般は1つです。左が豊臣秀吉拝領の青厳寺の寺紋「五三の桐」、右が高野山の鎮守・丹生都比売(にうつひめ)神社の寺紋「三頭右巴」です。
「金剛峯寺」は寺紋だけではなく玄関も2つです。
大玄関は天皇・皇族や高野山重職だけが出入りできました。
小玄関は上綱職の僧侶が出入りし、一般の僧侶は昔は裏口より出入りましたが今は一般参詣入口を利用しています。
長い廊下を進みます。
新別殿前の庭園。
新別殿は昭和59年(1984年)、弘法大師御入定・1150年御遠忌大法会の際、大勢の参詣者への接待所として新設されました。
鉄筋コンクリート造りですが、本山の荘厳に合わせて入母屋の荘重なもので、91畳と78畳の二間からなっており、仕切りを外せば169畳の大広間に早変わりすることができます。
平素は参拝者の休憩所としてお茶の接待を、僧侶の法話も随時行われています。
蟠龍庭に辿り着く前に枯山水の小庭があります。
日本最大級の石庭「蟠龍庭(ばんりゅうてい)は、雲海の中で雌雄一対の龍が奥殿を守っているように表現されています。
石は弘法大師誕生の地である四国の花崗岩、雲海を表す白川砂は京都のものを使っています。
金剛峰寺の奥殿を中心とする我国最大の石庭でその広さは5000余坪にも及びます。
京の白川砂と四国の名石を使用し勅使門より左側に雄龍、右側に雌龍を配するように造られ、金胎不二を表すとされます。
雲海の中で龍が奥殿を守っています。
高野山のすべての土地は金剛峯寺の所有。
また高野山真言宗の一切の宗務を司る宗務所がおかれている。
建物は文禄2年(1592年)豊臣秀吉が母親の菩提のため応其上人に命じて建立した寺で明治2年までは青巖寺と呼ばれていた。
落雷により2度焼失、現在の建物は江戸末期の文久3年(1863)再建。
壮大な玄関をもつ建物は文久3年(1863)の再建。
主殿は東西三十間、南北三十五間の大建築で、大広間には狩野探幽の襖絵「松に群鶴」が、豊臣秀次自刃したという柳の間には狩野探斎による「雪柳白鷲」が描かれている。
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