日本神話に語られる山幸彦・海幸彦の伝説の舞台、鵜戸神宮。
日向灘に面した断崖の中腹、東西38m、南北29m、高さ8.5mの岩窟(海食洞)内に本殿が鎮座し、参拝するには崖にそって作られた石段を降りる。
神社としては珍しい「下り宮」のかたちとなっている。
八丁坂
一番古い石段参道で、吹毛井の港から神宮の山門まで長さ約800m(八丁)の石段が続いている。
438段上ると別当墓地があり、下りは377段ある。
この石段は「坊園の尼」さんが延暦年中(782〜806年)に近くの海岸の磯石を頭に担いで築いたといわれている。
よく見れば階段の真ん中がすり減ってへこんでいる。
現在は旧道の横に楽な参道が作られており、参拝者も八丁坂を使う人は少ないだろう。
八丁坂を登り切ったところにある「神犬石(いぬいし)」
本殿の方向を向き、見守っているかのように見えることからこの名前が付いたそうだ。
神門の次にくぐる門が楼門。
ここからは下りの参道が続く。
楼門の手前、左手に吾平山上陵(あひらのやまのうえのみささぎ)へと続く小道があり、小さな鳥居が並んでいる。
宮内庁の管轄となる吾平山上陵は鵜戸神宮の祭神である鵜葺屋葺不合命の陵墓ということだが、鹿児島県肝属郡吾平町にある吾平山稜が本来の陵墓とされ、こちらのものは「参考地」となっている。
楼門から臨む海、雀岩、右には夫婦岩
扇岩
一帯の海岸には扇岩とか雀岩だとか奇岩が多い。
橋を渡る前に「福注連縄」で体をなでる。
「鵜戸玄深記」には、往古よりこの橋を限りとしてこれより奥に『不浄の草履木履を履事を禁ず云々』とあり、ここから先は裸足で参詣することが古くからの風習でしたが、戦後この風習は廃止された。
千鳥橋
参道にある朱塗りの橋で、眼前に広がる日向灘と奇岩は見応えがあり、ここで記念写真を撮る参拝客も多い。
玉橋
参道にある朱塗りの橋で、ここを渡るといよいよご本殿が見えてくる。
「神橋」とも呼ばれ、釘を一切用いない橋板36枚からなる反橋で、金剛界37尊を現す(36枚の橋板が36尊を、橋を渡る本人が1尊を現す)と伝える。
創祀の年代は不詳であるが、古代以来の海洋信仰の聖地で、社伝によれば、本殿の鎮座する岩窟は豊玉姫が主祭神を産むための産屋を建てた場所で、その縁により崇神天皇の御代に上記6柱の神を「六所権現」と称して創祀され、推古天皇の御代に岩窟内に社殿を創建して鵜戸神社と称したと伝える。
霊石亀石
ご本殿下の磯に、母君豊玉姫が出産の為に乗って来られたと言われる霊石亀石(れいせきかめいし・桝形岩)がある。
この亀石の背中に桝形の窪みがあり、この窪みに男性は左手、女性は右手で「運玉」を投げ入れ、見事入ると願いが叶うといわれている。
本殿
八棟造・県指定有形文化財
主祭神の産殿の址とされる洞窟内に建つ朱塗りの色鮮やかな本殿。
お参りはここで行う。
お乳岩
社殿の周囲を廻って洞の奥へ進むと、豊玉姫が海に帰る際に我が子のために置いていったという乳房が「お乳岩」として残っている。
母君の豊玉姫が御子の育児のため、両乳房をご神窟にくっつけて行かれたと伝える「おちちいわ」は、いまもなお絶え間なく玉のような岩しみずを滴らせて、安産・育児を願う人々の信仰の拠り所となっている。
産湯うぶゆの跡
豊玉姫は、出産の時には本来の姿に戻らなくてはならず、その醜い姿を見られたくないことから、「出産の際は産屋の中を覗かぬように」と山幸彦に言ったが、心配する山幸彦は、中を覗いてワニの姿に戻って出産する姫の姿を見てしまう。
それを悲しんだ豊玉姫は海原の国へ戻ってしまったが、姫は子のために乳房(ちぶさ)を置いていったと伝えられる。
また、山幸彦ひとりで子を育てるのは大変だろうと、豊玉姫は妹の玉依姫(たまよりひめ)を乳母(うば)として地上に送る。
やがて成長した鵜葺屋葺不合命(うがやふきあえずのみこと)は玉依姫を妻とする。
二人の間に生まれた子の中に、後の神武天皇がいる。
この産湯の跡が本殿裏、洞窟の一番奥にある。
鵜戸千畳敷奇岩
鵜戸神宮の鎮座する鵜戸先の南面にある。
今から約1000万年前から100万年前にかけて堆積した地層(新第三系宮崎層郡)で、砂岩と泥岩が交互に堆積してできている。
この地層は10度から20度傾いていて日向灘に面しており、長い年月にわたって日向灘の激しい波浪や風雨にさらされ、浸食されて現在の姿となった。
こうしてできた波状岩は別名「鬼の洗濯岩」や「鬼の洗濯板」と呼ばれ、とりわけ鵜戸千畳敷奇岩はその広さから県指定の文化財に指定された。
さすが南国、もう八重桜が咲いている。
鵜戸神宮へのアクセス、行き方歩き方
所 在 地:宮崎県日南市大字宮浦3232番地
電話.0987-29-1001/FAX番号.0987-29-1003
バス / 宮交シティから日南行きバス70分、鵜戸神宮入口下車