金沢城から見て東(卯辰の方角)に位置することから名づけられた。
宇多須山(うたすやま)、向山(むかいやま)、夢香山(むこうやま)、臥竜山(がりゅうざん)、春日山(かすがやま)等多数の別名がある。
日本の歴史公園100選に選ばれている。
城を上から見下ろすのは不敬であるとして、江戸時代には町人の登山は禁止されていました。
市民が登れるようになったのは、加賀金沢藩第14代藩主前田慶寧(まえだやすよし、1858~1900)が卯辰山開拓を始めた1867年(慶応3年)から。
左手に金沢美術工芸大学、右手に金沢大学付属病院が望まれる。
右に目をやれば、右手の高いビル群は金沢駅方面、左のビルは北国新聞社、その下に金沢城がみえる。
もう少し右に移動すると金沢城もはっきりと見える。
遠く白山を望む。
1947年(昭和22年)11月、卯辰山の中腹に日本の文学碑第1号、「徳田秋声文学碑」が建てられた。
現在、卯辰山には60を超える記念碑が林立しており、日本一の碑林公園と呼ばれたこともあるという。
徳田秋声は、1871年(明治4年)、武家の4人目の妻の子として生まれた。
明治維新で家は没落し、浅野川周辺で転居を繰り返した。
流れが穏やかで「女川」と呼ばれる浅野川、二つの茶屋街が広がるこの界隈(かいわい)で育った秋声が「女を書いたら神様」と言われる作家になったのは偶然ではないという。
金沢市内が一望できる望湖台。
今朝、兼六園で地元の人から卯辰山を薦められ上った。
ホテルのフロントでルートを聞くと、歩いてなんてとても・・・と言われタクシーで上る。
しかし、頂上付近では地元の人達が三々五々とウォーキングしている、これはタクシーなどに頼ってたらダメと徒歩で下山することに。
ルートは幾通りもあるのだが竹林のルートを選んでしまったようだ。
降りきったところに利常公酒湯の井戸。
3代藩主の利常が、息子の病気を治すために、この井戸の神水にお酒を混ぜ合わせて息子の体にかけて、病気を治したと伝えられている。
「宇多須神社」、藩祖の前田利家が亡くなった時に、二代藩主の利長が利家の神霊を葬った神社。
利家の神霊は、明治6年に尾山神社に移された。
ひがし茶屋街、ここは春節の最中とあってやかましいことで有名な〇△国の人達がわんさと押しかけています。
金沢駅に着いたとたんにいやな光景に出くわし、もうこりごりだ、彼らの目指す近江町市場にも寄りたくない、なぜこうまで嫌われて観光して楽しいのか・・・・・
観光地の方でも目先の利益に目がくらんでいては大切な日本人客を失いますよ、現に銀座の有名店では日本人客離れがドンドン進行中と聞く。
今回はパスです、以前の訪問記事があります、詳しく書いていますよろしかったら。
空から謡(うたい)が降ってくる ひがし茶屋街
ひがし茶屋街は石畳の道の両側に紅殻格子のお茶屋が並んでおり、江戸時代の雰囲気を残 … 続きを読む →
浅野川大橋、1594年(文禄3年)に加賀藩初代藩主前田利家が北国街道に架けたのが始まりとされる。
現在の浅野川大橋は1922年(大正11年)に架けられたものであり、独特の構造(3径間連続固定アーチ構造)に特徴があるアーチ橋である。
金沢を紹介する画像にはこの橋が使われることも多い。
主計町茶屋街、藩政中期、後期に小松城代や算用場奉行をつとめた加賀藩士で郷土史家の富田景周(とだかげちか)が著した「越登加三州志」に富田主計重家(とだかずえしげいえ)の上屋敷があったことにちなむという。
どこも石畳が敷かれ、料亭や茶屋が並び、「木虫籠」(きむずこ)と呼ばれる格子窓から、三味線の音が聞こえてくる情緒ある町並みである。
あかり坂、尾張町から主計(かずえ)町へ通じる「暗がり坂」に平行する坂。
2008年までは名前の無い坂道でしたが、地元住民からの依頼を受けて作家の五木寛之氏が作品の中で命名したという。
主計町は地元でも「かぞえちょう」「かずえちょう」とも呼ぶ人もいるが、金沢市観光課のWEB上の表記も「かずえまち」で現在は統一されている。
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卯辰山公園へのアクセス、行き方歩き方
石川県金沢市卯辰町
北鉄バス望湖台下車、徒歩1分
※運行本数が少ないのでご注意ください。
※夜間に「望湖台」まで運行している路線バスはありません。