糸魚川の秘境 小滝川ヒスイ峡

甲信越

信州の秘境第3弾は糸魚川の秘境 小滝川ヒスイ峡です。

糸静線と塩の道(北部)ジオサイト
日本列島を東西に二分する糸魚川-静岡構造線(糸静線)は、フォッサマグナの西縁を境する大断層です。

断層はほぼ姫川に沿いますが、根小屋-北小谷間は、姫川東の山間部を通ります。
断層に沿って地すべりや地形的凹地が生じた結果、断層に沿ってなだらかな勾配の地形ができました。

これらの低地を結んで、塩の道(国史跡)ができました。
姫川は、土石流や洪水をたびたび起こす暴れ川であるため、道をつくるのは困難で危険だったからです。

昭和31年に国の天然記念物に指定された小滝川硬玉産地は、姫川の支流、小滝川に明星山の大岩壁が落ち込んだ川原一帯を指し、ヒスイのふるさと糸魚川を象徴する日本随一のヒスイの産地、小滝川ヒスイ峡の名で多くの人に親しまれています。

この区域では岩石の採取はできませんが、ここから流れ出たヒスイは姫川を下り、市内の海岸に打ち上げられます。
このことからこの付近の海岸はヒスイ海岸とも呼ばれ、愛好者がヒスイを求め、探し歩く姿が見られます。

自動車でアクセスできてすぐに登ることのできる明星山は、日本でも滅多にないロッククライミングのフィールドです。
弱酸性の雨に溶けやすい石灰岩でできているため、手をかけたり足をのせたりする「ホールド」と呼ばれる出っ張りやへこみができやすく豊富にあることが、クライマーに人気の理由です。
上級クライマーのみが見ることができる絶壁からの眺めはどのようなものなのでしょうか。

小滝地域は豊かな自然と地質に恵まれ、季節によって異なった表情を見ることができます。
平成22年7月には小滝川ヒスイ峡に遊歩道が完成し、秋には小滝川渓谷を歩くイベント「まるごと小滝 ウォーキング」も開催されます。

その雄大な自然の中をゆっくりウォーキングすれば心も体もリフレッシュ。
さまざまな発見に出会えるかもしれません。

岩壁もきれいに色づく。

翡翠の原石が展示されている。
今から約4500年前の縄文時代以降日本各地で使用された硬玉(ヒスイ)は当地方産のものと判明しています。

小滝川硬玉産地の「硬玉」とはヒスイのことで、微細な結晶が絡み合っているため非常に壊れにくいという特徴を持っています。
宝石として人気の高いヒスイですが、一般的に宝石の原石というのは、磨いて初めて輝きや美しさが出てくるものです。

新潟県糸魚川・青海地域は、ミャンマーのカチン高原、グアテマラのモタグア谷とともに世界のヒスイ三大産地の一つです。
小滝川は姫川の支流で、中生代・古生代の古い地層を縫って流れ下り、小滝地区大前で姫川「こ合流します。

ここ小滝川の硬玉(ヒスイ)は昭和13年に発見されました。
現地の人はこの石が翡翠とわかるまでは比重が重いので漬物石に使っていたとネイチャーガイドから説明があったが、うそのような贅沢な話した゛。

ヒスイは高い圧力と約200~300℃の条件でできる鉱物の一種で、アルビタイトという灰白色の変成岩に含まれていることが普通です。

小滝ヒスイ峡のヒスイは約3億5千万年前以前に海洋プレートの沈み込みによってでき、その後、蛇紋岩の上昇と共に地下深所から地表付近まで持ち上げられたものです。
最も良質なヒスイを多産する場所として天然記念物に指定され、考古学的にも重要な場所です。

展望台の左前方に小さな滝が見えるが、ネイチャーガイドの方も名前は知らないとのことだった。

山全体が石灰岩で形成されているため、とても険しい山です、岩壁の一部が露出展示されている。

反対側の山もきれいに色づいているがこの中に「糸魚川真柏」があるのだろうか。
真柏の中でも全国的に評価の高いものでその枯れたしゃりはこの山のものの大きな特徴とのこと。

河原に目をやれば大きな翡翠の原石がごろごろ。
現在の小滝ヒスイ峡の岩石は、当地域の地質を代表するいわば自然岩石園であり、良質な硬玉(ヒスイ)は河床上に少なくなって保護されていますが、清冽な小滝川の流れに何万年もの長い間研がれた岩塊が折々にその美しさを水際に現わして訪れる人々を楽しませてくれます。

ヒスイ峡の河床。
護岸は学習護岸となっていて、時代の古い順に並べてあります。

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小滝川ヒスイ峡へのアクセス、行き方歩き方

親不知ICから国道8号、県道155号経由で車で30分 (中型バスまで通行可)

独り言・・・・
翡翠は考古学上においても非常に貴重なもの。
日本考古学の扱いに倣って、翡翠を硬玉に限定すると、その産地は、東アジアでは、ミャンマーと日本の糸魚川近辺にかぎられ、朝鮮半島にはない。

『文選』など5~6世紀の中国の古文献に宝石として翡翠の名が現れる。
中国の硬玉は18世紀にミャンマーから運ばれてはじめて使われるようになったので、古文献に翡翠と記されたものは硬玉ではなく軟玉である。
勾玉は朝鮮半島の南部からしか出土しない。

朝鮮半島の勾玉は、日本に近い朝鮮半島の南部からしか出てこない。
半島の勾玉が日本から持ち込まれたことを示しているようである。
硬玉の産地は新潟県の糸魚川市小滝と西頸城郡青梅地方である。

翡翠に関係する伝承
翡翠(硬玉)産地のこの地域には大国主命と結婚した、奴奈川(ぬながわ)姫の伝承があり、姫を祀る奴奈川神社がある。
大国主命は多くの女性と結婚したが、高志(こし)の奴奈川姫と結ばれたのは、翡翠入手と関係した政略結婚ではないだろうか。

また、『先代旧事本紀』では、大国主命と沼河比売との間の子が建御名方(たけみなかた)の命であるとされる。
出雲の国譲りのときに、大国主命の息子・建御名方命は、高天原軍の建御雷(たけみかづち)の命に敗れ、母の故郷に近い諏訪に逃げこんだと記される。
建御名方命は諏訪神社に祀られている。
ウィキペディア 任那

ヤマト王権の勢力を示す他の傍証としては、新羅・百済・任那の勢力圏内で大量に出土(高句麗の旧領では稀)しているヒスイ製勾玉などがある。
戦前の日本の考古学者はこれをヤマト王権の勢力範囲を示す物と解釈していたが、戦後に朝鮮から日本へ伝来したものとする新解釈が提唱されたこともあった。

しかし、朝鮮半島にはヒスイの原産地がなく、古代においては東アジア全体でも日本の糸魚川周辺以外にヒスイ工房が発見されないことに加えて、最新の化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じことが判明し、日本からの輸出品であることがわかった。

そのため、ヤマト王権と深い関連を持つ集団(ヤマト王権から派遣された官吏や軍人、交易商人、ヤマト王権に臣従した在地豪族、あるいは倭系百済官僚など)が、伽耶地域とその西隣の地域において一定の軍事的影響力および経済的利権を有していたことについては、ほぼ確実視されるようになった。

現在では、記紀の記述や考古学的成果、他に傍証として、広開土王碑、『宋書』倭国伝等の記述をもとに、任那日本府は倭国の軍事を主とする外交機関であり、倭国は任那地域に権益(おそらく製鉄の重要な産地があった)を有していたとする説もある。