中島橋からの景観、秋の気配は感じられない。
ズームしてみる、観光用のボートが係留されている。
まだ、秋というには程遠い、インバウンドの姿もなく静かに秋を迎えている。
古くは葛野川と呼ばれ、大堰川と呼ばれるのは、5世紀後半に、この地域で大変な力を持っていた秦氏(渡来系の豪族)が、川に大きな堰(せき)をつくり、灌漑用水を引いたことに由来します。
大堰川に橋を架けられたのは、承和年間(834年〜848年頃)法輪寺を中興した僧、道昌(どうしょう)で、法輪寺の門前橋であったことから「法輪寺橋」と呼ばれていました。
渡月橋と呼ばれるようになったのは、鎌倉時代に亀山天皇(在位期間1259年〜1274年)が、満月の晩に舟遊びをされ、月が橋の上を渡るように見えることから、
「くまなき月の渡るに似る」と詠われたことからに由来します。
上桂川、桂川、大堰川、保津川など流れている地域によって名を変えているが、いずれも同じ川(桂川)である。
司馬遼太郎は、渡月橋をこう評価しています。
この景観には、大きく弧を描いた唐橋は似合わない。
渡月橋はひたすら水平の一線をなしている。
それも、橋であることの自己顕示を消しきったほどにひかえめである。
この感覚は、桂離宮の軽みにも通じている。
また、どこから見ても、景観のなかでは、低めの位置に渡月橋の一線があり、
この位置が、黄金分割になっている。
『街道ゆく 嵯峨散歩』より
秦の時代に中国四川省の成都の郊外に築かれた都江堰(とこうえん)と京都の秦氏が築いた葛野大堰がよく似た構造をしている。
葛野大堰とは、観光地で有名な嵐山の渡月橋の直ぐ上流周辺を指している。
実は、秦の始皇帝の末裔の秦氏の土木技術者が朝鮮半島の新羅経由で渡来して、京都嵐山の渡月橋の上流に葛野大堰を築いたことになる。
川漁をしている人の姿が見られる。
鵜縄(うなわ)と呼ばれる漁か。
縄に鳥(鵜など)の羽根を取り付けて、縄で水面をたたきながら網に魚を追い込んで魚をとる漁法。
二人で涼をしている、向こう側の人が石を投げて魚を網に追い込もうとしている。
一般的に、渡月橋を境にして、上流を大堰川 (おおい がわ)、下流が桂川 (かつら がわ)と言われてます。
大きい流れの桂川の上に渡月橋がかかっている。
小さい流れの桂川には小渡月橋架かっている。
この川は保津川下りの船を陸揚げしたり、船着き場がある。
保津川下りの船が係留されている、舫い舟(もやいぶね)とでも呼んだら風情が出るのかな。
二枚目の画像の奥に係留されているのがこの舟。
関連記事