祇園白川に 明智首塚

京都府

1582年(天正10年)、天正天王山の戦いで羽柴秀吉に敗れた明智光秀は、坂本城を目指して落ちていく途中、小栗栖の藪の中で土民に襲われて命を落とします。

光秀の首は秀吉の手に渡り、本能寺に晒されたとも、粟田口の刑場に晒されたとも伝わります。

白川橋を南に下がった東側、和菓子屋・餅寅さんの横には「東梅宮 明智光秀墳」と刻まれた弘化2年(1845)の銘が入った石碑が建っています。

目印はズバリ光秀饅頭。

路地の入り口にある碑。

その路地の奥に、光秀の木像と位牌を祀った小祠を中心に、五輪塔の笠石を重ねた光秀の首塚、「長存寺殿明窓玄智大禅定門」(光秀の戒名)と刻まれた石碑があります。

「長存寺殿明窓玄智大禅定門」の石碑は、明治時代に光秀を演じた歌舞伎役者によって建立されたもの。
光秀の木像は厨子の中に納められていて拝見することはできませんでしたが、祠の扉に光秀像の写真が貼られていました。

光秀の首塚は、もとはこの場所にあったのではありません。『京都坊目誌』によると、光秀の首は、粟田の刑場にさらされた後、そのすぐ近くの西小物座町の人家のうしろに、他の数千の首と一緒に埋められ塚が築かれました。

後世、光秀の子孫と名のる明田氏が、その塚にあった石塔を自宅(現在地の東)へ移して祀ったのがはじまりです。

明治維新後、現在地に移され、今も大切に祀られています。
また、首塚は、首から上の病気にご利益があると信仰されているそうです。

五重石塔、江戸時代、1845年の銘がある。

歴史街道に掲載された記事が貼ってありました。

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