古代の人々は、山住神社の後ろにそびえたつ山を神南備山(かむなびさん)と仰ぐ巨石を神々の降臨する磐座(いわくら)と崇めていたという。
神社の説明書によれば、「三代実録」陽成天皇元慶4年(880年)の項に「山城国正六位石座神授従五位下」と記されている。
上部に磐座が見えている。
天禄2年(971年)に、当社から北に1キロほど離れた大雲寺の建立にともない、石座明神(現在の山住神社)が現在の石座神社(岩倉上蔵町)の地へ遷され、大雲寺の鎮守社となった。
明治時代に入るまでは、山住神社は「石座神社」と呼ばれ、鎮守社となった神社は「八所・十二所明神社」と呼ばれていたが、明治以後に、現在の石座神社にその名を譲り、山住神社はその御旅所となった。
元禄12年(1701)に記された「大雲寺堂社旧跡纂要」には、以下のように記されている。
石座明神。今、霊石在り。松の柱を立てて、之を覆い、瑞垣を以て之を囲む。目無川の末、西方の山麓に在り。今は農舎の間に介まれり。
俗、呼びて旅所と為し、神輿を祭礼して、此処に安く。これは八所・十二所の両社、寺内に勧請して、石座明神相殿なるが故。漸々に社祠破壊し、霊石顕著なるもの乎。茲により村里の人民、誤りて九月十四日の神祭の旅所と呼びて、山上の両社を修繕し、当社を営むに疎かなるものか。 – 権少僧都恕融『大雲寺堂社旧跡纂要』(1997年・竹田源訳)
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