磐之媛の嫉妬

奈良県

磐之媛は仁徳天皇2年(314年)立后。葛城襲津彦の娘で、武内宿禰の孫にあたり、皇族外の身分から皇后となった初例とされる。
嫉妬深いひとと言われるが果たしてそうだったのか。

記紀によるととても嫉妬深く、仁徳天皇30年(342年)に、彼女が熊野に遊びに出た隙に夫の仁徳天皇が八田皇女(仁徳の異母妹。磐之媛命崩御後、仁徳天皇の皇后)を宮中に入れたことに激怒し、山城の筒城宮(現在の京都府京田辺市多々羅付近)に移り、同地で没した。

磐之媛伝説・・・・・君が行き 日長くなりぬ

君が行き 日長くなりぬ 山たづね 迎へか行かむ 待ちにか待たむ 巻二(八五)
かくばかり 恋いつつあらずは 高山の 磐根し枕きて 死なましものを 巻二(八六)
ありつつも 君をば待たむ 打ち靡く わが黒髪に 霜の置くまでに 巻二(八七)
秋の田の 穂の上に霧らむ 朝霞 何処辺の方に わが恋い止まむ 巻二(八八)

あなたが旅立ってからずいぶん長い日が経ってしまった。あの山道をたずねて迎えに行こうかな。やっぱり待っていようかな。

これほどに恋しくて苦しむのならば、いっそあの高い山の岩を枕にして死んでしまいたい(でもそれも出来ないし…)

ここに居続けてあなたを待っていよう。長く靡くこの黒髪に霜が置くようになるまででも

秋の田の稲穂の上にかかる朝霞のようにわが恋の晴れる方はどこにもないの

3首目の意味は「豊かな私の黒髪が白くなるまであなたを待ちましょう」という意味であり、この歌を詠んだのが上記と同一人物とは信じられず、後の時代に別の誰かによる創作とも考えられている。

磐之媛の生まれ育った葛城の地。

仁徳天皇の大后「磐之媛」は嫉妬に狂う気性の荒く激しい女性であるかのように記紀は記している。
しかし、これには疑問を差しはさまざるを得ない。

それは、政治的重大事件の真相を隠蔽するために、でっちあげられたものではあるまいか。

記紀が記す彼女の嫉妬なるものを分析してゆくと八田皇女が浮き上がる。
その線をさらに追うと、父応神天皇が後継者に定めた菟道稚郎子皇子は自害したのではなく、仁徳によって殺害されたのではないかと云う事実に突き当たる。

菟道稚郎子皇子や八田皇女の兄妹の背景には和珥氏なる強大な古代豪族がある。

このために引き起こされた南山城の和珥氏族の不穏な動きを封ずるために、磐之媛は夫仁徳に代わって、紀伊の軍兵を率いて山城に駐屯した。

しかし、記紀は磐之媛の山城行きの原因となった稚郎子殺害事件を隠蔽するために、磐之媛に嫉妬話を捏造したのであろう。

今も、宇治の県神社に伝わる暗闇祭の奇祭は、仁徳による稚郎子暗殺を暗示している。

平城天皇楊梅陵(やまもものみささぎ)

全国最大の円墳と考えられてきたが、1962-63年の発掘調査により前方部が平城京築造の際取り壊されており、元は平安期には築造されていない前方後円墳であったことが判明したため、同古墳を平城天皇の墓とするのは無理があるとされる。

大同5年(810年)に平城上皇と嵯峨天皇とが対立するが、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって、平城上皇が出家して決着する。

実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「宇和奈辺陵墓参考地」(被葬候補者:第16代仁徳天皇皇后八田皇女)として陵墓参考地に治定されている。

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磐之媛陵へのアクセス、行き方歩き方

奈良県奈良市佐紀町

近鉄奈良駅→奈良交通バス航空自衛隊下車徒歩約6分