玉陵(たまうどぅん、玉御殿または霊御殿とも)は、琉球王国、第二尚氏王統の歴代国王が葬られている陵墓。
所在地は沖縄県那覇市首里金城町。そもそもは第3代尚真王(在位1477年 – 1526年)が父、尚円王を葬るために建築したものである。
世界遺産のひとつで沖縄県最大の破風墓。
玉陵奉円館
玉陵入り口にある券売所。
ガイドブックなどの刊行物も販売。
地下1階は資料展示室になっており、玉陵の概要や玉陵内部の様子を展示説明している。
東の御番所(あがりぬうばんじゅ).
沖縄戦前までお墓を守る番人がお墓の管理をしていた。
王国時代には墓参りに来た王様が休憩をしたところでもある。
墓所に向かって拝所がある。
玉陵碑
9名の被葬資格のある者を書き付けているが、この碑文の本当の意図は、尚真王の長男・尚維衡、浦添王子朝満が葬られるのを排除することを目的にしているとされる。
朝満は尚真王の長男で世子であったが廃嫡され、王位に就くことができなかった。
この碑文は、尚真王の母である世添御殿の意向を汲んで刻まれたとも言われている。
王位継承を巡っての一族内の争いがあったことを示唆している。
尚真王の後、尚清王が即位すると、書き付けに反して、朝満を玉陵に移葬した。
入口部分の石垣は一段高くなっていて、開口の形状は角張っています。
城壁でよく見られるアーチ門とは趣の異なる直線的なイメージです。
玉陵は中室、東室、西室の3つの建築物に分かれる。
中室は葬儀の後、当時の琉球の葬制に基づき遺骸が骨になるまで放置し、数年後に骨を取り出して洗骨した。
洗骨した後に遺骨を骨壺に収め、王及びその妃の骨は東室に納められ、他の王族は西室に納められた。
建造物の外は外庭、中庭に石壁で仕切られ、中庭には珊瑚の破片が敷き詰められている。
東室の左側は岩が盛り上がったような形をしていて、右側の円塔と同じくらいの高さになっています。
そして、それぞれの頂には石造りの獅子が載っています。
両側から王と王妃の墓を守っているかのようです。
中室は洗骨までの遺体を安置し、洗骨後の王および王妃の遺骨は東室へ、それ以外の家族の遺骨は西室へ安置したと伝えられている。
2442㎡の広大な墓域は沖縄最大で、一見すると「これがお墓ですか!?・・・」と思えるくらいの巨大さであり、同時に当時王統の権力の大きさを伺い知ることができる。
中室を挟んだ反対側の西室は獅子の彫刻もなく、少し格下の印象です。
王族とはいえ王や王妃とは少し扱いが違うようです。
こちらも板葺き屋根を模した石造りです。
本来木製の物をあえて石で作るのは、魂の永遠不滅を願っているのでしょうか。
琉球王国は、1429年に尚巴志【しょうはし】王が琉球列島を平定・統一してから始まる。その尚巴志王の父・尚思紹【しょうししょう】王から7代63年間(1406~1469)続いた時代を第一尚氏王統と呼び、その後、1872年の明治政府による琉球処分・琉球王国滅亡までを第二尚氏王統という。
ご紹介する玉陵【たまうどぅん】は、第二尚氏王統・初代国王の尚円【しょうえん】王の子で第3代国王・「尚真王【しょうしんおう】」(在位:1476~1526)によって1501年に築かれた巨大な石造の陵墓【りょうぼ】である。
始めは尚真王の父・尚円王の遺骨を改葬するため造られたとされ、中室・東室・西室の3つ墓室から構成されている。
見学することは出来ないが墓室内部は天然の岩壁をくり貫いて造られているらしい。
また、外部は切石積の家型としていて沖縄特有らしいが木造建築のように見えるからか破風【はふ】墓と呼ぶ。
洗骨後の骨をおさめる骨壺、魂が行き来できるよう小さな穴が開いている。
中央と左右の上部に三頭の石獅子が鎮座している。
中央の石獅子は胸を張って正面を向いた堂々としたもので、左右の石獅子は玉紐と戯れたユーモラスな表現になっている。
玉陵へのアクセス、行き方歩き方
住所:那覇市首里金城町 1-3
電話:098-885-2861
交通アクセス1
那覇空港から 車(一般道)で約 30分
交通アクセス2
沖縄自動車道 : 那覇ICから 車(一般道)で約 20分
交通アクセス3
路線バス : 首里城公園入口バス停から 徒歩で約 10分
停車バス : 1番首里識名線、8番首里城下町線、17番石嶺開南線、46番糸満西原線