清凉寺 源氏物語ゆかりの地

京都府

清涼寺の前身は、光源氏のモデルとされる嵯峨天皇・皇子の源融(みなもととおる)の山荘「棲霞観」(せいかかん)で、融が亡くなって棲霞寺と改めらたが、天慶8年(945)醍醐天皇・皇子の重明(しげあきら)親王が亡き妃のために新堂を建て釈迦如来を安置した。

これが釈迦堂の名前の由来とされ、京都十三仏霊場第二番礼所である。
造らせたまふ御堂は、大覚寺の南にあたりて、滝殿の心ばへなど、劣らずおもしろき寺なり。

(光源氏がご建立なさっている御堂は、大覚寺の南に当たって、滝殿の趣なども、それに負けないくらい素晴らしい寺である。)

江戸時代に作られたこの清涼寺山門は1987年(昭和62年)4月15日に京都府指定文化財となりました。
「五臺山(五台山)」と書かれた額が掲げられている門は安永6年(1776年)に再建されたもので、楼上には十六羅漢が祀られています。

両脇の赤い阿形吽形一対の金剛力士像は室町後期のものと伝えられています。

上層の軒下に掲げられている「五臺山」の額は、宋より帰国した奝然上人(ちょうねんしょうにん)が近くの愛宕山(標高924メートル)を宋の五台山になぞらえてここに大寺院を建立しようとしたことに由来します。

源融(みなもととおる)の墓:多宝塔の裏にある宝篋印石塔

向かって右側(北側)の宝篋印塔(ほうきょういんとう、平安時代末期に製作)が嵯峨天皇の宝塔で、向かって左側(南側)の石層塔(平安時代中期に製作)が檀林皇后の宝塔です。
幕末期までは御陵とされていました。

嵯峨天皇は第52代天皇(在位:大同4年4月1日(809年5月8日) – 弘仁14年4月16日(823年5月29日))、檀林皇后(橘嘉智子)は嵯峨天皇の皇后です。

仁王門をくぐるとすぐに目に飛び込んでくる本堂。
堂内脇には徳川綱吉の生母桂昌院ゆかりの品が展示されている。

清涼寺の多宝塔も本堂や仁王門と共に京都府指定文化財となっています。
元禄16年(1703)に建立され、均整のとれた姿で東を向いて建っています。

聖徳太子殿:境内の西南隅にある。

豊臣秀頼公の首塚:大阪城の三の丸跡発掘現場から出土。

ちょう然(開山)の墓塔は、八角形をしていて、各面に仏立像がみられる。

一切経蔵
徳川中期の建築で、中には一切経をおさめた輪蔵があり、回すことで一切経を読んだことになる。

方丈庭園は小堀遠州作
本堂の裏へ回ると放生池と弁天堂があり、方丈へ向かう回廊からの眺めは見事。

清涼寺本堂の西側には薬師寺がある。
安永9年(1780)に刊行された都名所図会には清涼寺の境内に薬師堂として描かれている。
清涼寺の塔頭のように見えるが、浄土宗知恩院派の寺院である。

本堂は塀などによって寺域が明確になっていないため、清涼寺の境内に直接南面している。
そのため清涼寺の伽藍の一部のように見える。

この本堂の西側には塀によって区切られた薬師寺の境内があり、山門の日月門が建てられている。

石畳と皐月の花と樹木の緑、取り合わせが良い。

門を入ると三体のお地蔵様が目に入ります。
夕霧地蔵、瑠璃光地蔵、六道地蔵と名付けられています。
夕霧はこの地で生まれた夕霧太夫。

毎年11月にここ清凉寺で夕霧祭が執り行われる。
その時の様子は下記ブログで読むことができます。
夕霧太夫を偲んで清凉寺で夕霧祭

薬師堂脇の生の六道石柱:小野篁が冥土と現世を往復していた“生の六道”
西門近くの「薬師寺」(旧福生寺)の脇に「生の六道」の石柱がある。
嵯峨釈迦堂の東隣が六道町で、昔はそこに福生寺があり六道の辻があったという。

小野篁が冥土と現世を往復していた、冥土への入口“死の六道”が六道珍皇寺に対し、冥土から現世へ戻る出口“生の六道”が福生寺(現薬師寺)と伝えられている。

広い境内の一隅に「狂言堂」がある。ここが世に名高い念仏狂言の行われる所である。
百万はこのあたりでわが子に巡り会ったのであろうか。

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清凉寺へのアクセス、行き方歩き方

京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46
Tel:075-861-0343

嵯峨野線「嵯峨嵐山駅」から徒歩15分