能島(のしま)は、瀬戸内海のほぼ中央、伯方島と大島との間の宮窪瀬戸、鵜島の南西に位置する無人島。
能島村上氏の拠点として知られ、干満時には激しい潮流を生み、渦巻く急流は天然の要害ともなった。
港を出港すると伯方・大島大橋、能島が見えてくる。
海底の岩礁に潮が当たって、白く波立つところが見えます。
なかでも、能島の周囲は最大10ノット(時速約18km)にもなる潮流が渦巻き、時には船を呑み込んでしまうほどです。
中世、村上水軍の一派、能島水軍(野島氏)が水軍城を設けた。
この付近の海域は帆船時代、瀬戸内海航路の最も重要な航路の一つであった。
しかも宮窪瀬戸の東側で能島と鵜島とが流れをさえぎるような位置関係であることから、干満時には激しい潮流を生み、渦巻く急流は天然の要害ともなった。
このため、平時には通過する船に対して水先案内人として行きかう船を案内し、帆別銭(一種の通行料)を徴収、室町期以降この地に能島城を築き、この海域の制海権を掌握していた。
能島城には本丸、二の丸、三の丸、出丸などがあり、中世の水軍城としても規模が大きいものであった。
能島の桜は1931年(昭和6年)に宮窪村(当時)の有志により、植えられた。桜満開の時期の週末には季節船が運航されており、花見客でにぎわう。
応永26年(1419年)村上山城守雅房によって築かれたと云われる。
三島村上水軍の一つ能島村上氏の拠点の一つとして築かれた。
天文24年(1555年)陶晴賢と毛利元就が戦った厳島合戦で、能島村上氏は毛利方につき勝利に貢献した。
フロイスの『日本史』では日本最大の海賊と称されるほどの勢力を持っていたが、豊臣秀吉による四国征伐ではこれに従わず、小早川隆景の攻撃を受けて降伏、安芸国鎮海山城主となった。
戦国末期、村上氏は豊臣秀吉との戦いに参戦したが敗北を喫し、秀吉の海賊停止令により、水軍の歴史は終わりを告げた。
能島城は廃城となり、江戸時代以降無人島となったため、その城塞遺構はよく保存されている。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦で村上武吉の嫡男元吉は加藤嘉明の居城である伊予国松前城を攻めたが、三津刈屋口の戦いで敗れて討死した。
島全体が要塞化されており、岩礁には柱穴や犬走りなどの遺構も残っている。
鵜島との狭い海路には、海面に段差ができるほどの激しい潮流が流れる。
見近島の手前は鶏小島灯台。
くじらを助けた、お地蔵さん。
鯨が昼寝をしていると、潮が引いて、帰れなくなってしまい、お地蔵さんが鯨を助け、鯨が恩返しをする話です。
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能島へのアクセス、行き方歩き方
愛媛県今治市宮窪町宮窪1293-2(村上水軍博物館前)
tel.0897-86-3323(物産館兼魚食レストラン「能島水軍」)
JR今治駅よりしまなみ海道経由大島南ICより車で約10分(宮窪桟橋まで) 宮窪港から船約5分