武信稲荷神社 龍馬とおりょうの榎

京都府

龍馬とおりょうの出会いを導いたエノキ。
今も縁結びを願う人が絶えない(京都市中京区・武信稲荷神社)

武信稲荷神社は創祀者の藤原良相公が長として一族の名付けをされていたことから、名付け・命名に所縁の神社として知られています。

後世には藤原武信という方がこの御社を厚く信仰し、御神威の発揚に努めたので武信稲荷と称されるようになりました。
創祀以来一千年余にわたり広く人々に信仰されています。

必勝!勝駒・勝守
古くから「勝駒」、(「勝守」は御守り)といわれる駒形の守護札(絵馬 )が伝わっています。

天地に陽気がよみがえって、万物が皆いきいきと育成し、活動しはじめる一年中でもっとも 陽気の盛んな節分、立春、初午にかけて授与されます。
「勝駒」の勝は勝敗の勝のみならず、広い意味で解釈されます。

本殿、左に坂本竜馬が登った榎がある。
手前に拝殿が見える。

武信稲荷神社の榎
その一本で森の風格がある。
京都市天然記念物に指定されている榎は高さ 23メートル、胸高幹周り4メートル。

コケのむす幹は九つに分かれ、四方に大きく枝を伸ばす。
樹冠は東西22メートル、南北26メートルにも及ぶ。

附近の壬生(昔は水生といった)という地名からもうかがえるように、たっぷりと水を含んだ地盤が木を豊に育んだ。
樹齢は約850年。平安時代末期、平重盛が安芸の宮島厳島神社から苗木を 移したと伝えられている。

神社の南には江戸時代、幕府直轄の六角獄舎という牢獄があり幕末、勤王の志士が多数収容されていた。
その中に 坂本龍馬の妻おりょうの父である楢崎将作(ならさきしょうさく)が勤王家の医師であったため捕らえられていた。

おりょうは父の身を案じ龍馬と共に何度か訪れるが、当時女性が牢獄へ面会できることもなく龍馬自身も狙われる身であり面会はかなわない。
その為、神社の大木の上から様子を探ったという。

その後命を狙われ追われる龍馬は身を隠し二人は離れることとなる。
おりょうは龍馬の身を案じ行方を捜していた。

そんなおり二人で何度も訪れた武信稲荷神社の榎をふと思い出し訪れた。
するとそこには龍馬独特の字で『龍』の字が彫ってあったという。
自分は今も生きている。
そして京都にいるのだ。

そういう龍馬からの伝言であった。
龍馬が京都にいることを知ったおりょうは二人の共通の知人を訪ね、それにより二人は再び出会えたという。

白蛇弁財天
古くからこの土地におられた白蛇の姿をした弁天が、行者に「人々を守護するために世にでる」とお告げがあり、有志の人々の奉仕によって祀られる。
商売繁栄、技術技芸上達のご利益があるとされる。

釘抜大明神(釘抜地蔵)
近くの鍛冶屋が病気や災難に苦しんでいたのを武信稲荷大神に祈願したところ、鉄を打っていると、釘抜きの形のものが出来上がったといわる。

それをここに祀ったところ、鍛冶屋は、幸運に恵まれがといわれる自分の体の悩みがあるところをさすり、釘抜さんを撫でると平癒するといわれる。

能勢妙見山の常吉大明神

武信稲荷神社の南には「日本近代医学発祥の地」「勤皇の志士 平野國臣他数十名終焉之址」の碑及び「殉難勤皇志士忠霊塔」と「近代医学のあけぼの 山脇東洋観臓之地」「六角獄舎 平野国臣殉難の地」の駒札があります。

幕末尊王攘夷派の指導者平野国臣が処刑されたところである。
この地はもと「六角獄舎」があったところで、安政の大獄以後は多くの政治犯が収容されたので会所ともいった。
国臣は、生野(いくの)の乱に挙兵して捕えられ、元治元年(1864)1月17日ここに収容された。

同年7月19日禁門(きんもん)の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変)の兵火の中で幕吏は獄中の尊王攘夷派の志士たちを斬った。
この時斬られた一人が国臣である。

この難にあったものは、国臣のほか37名にのぼった。
なお、当地は、宝暦4年(1754)に医師山脇東洋がわが国で初めて死体解剖を行ったところと言われ、付近に記念碑がある。

武信稲荷神社へのアクセス、行き方歩き方

阪急…四条大宮駅より徒歩5分
JR…二条駅より徒歩10分
地下鉄…二条城前駅より徒歩10分
市バス…壬生車庫前より徒歩2分
市バス…三条堀川より徒歩10分