円山公園、紅葉には少し早く、まだまだ緑がきれいです。
音楽堂の脇を東へ上る、建礼門院が落飾した寺 長楽寺があります。
黄台山 長楽寺 建礼門院が落飾した寺
壇ノ浦の戦いで平家が滅亡、建礼門院は一門と共に入水したが、敵方の源氏の手によって … 続きを読む →
京都祇園堂付近に祇園女御の屋敷があり、その後、祇園女御の菩提をとむらう塚がおかれていた。
祇園女御は、白河法皇の寵妃で、法皇は子をはらんだ女御を平忠盛に嫁がせ、その女御が産んだ子が平清盛であるとされる。
しかし、当時、祇園女御は40歳代だったともいわれるし、子供の産めない体だったともいわれる。
養母であったというあたりが正解か。
祇園女御を巡る話で『平家物語』の中にある、平忠盛が祇園女御の元へ通う白河法皇の命を受け、闇夜に浮かぶ得体の知れない化け物を灯籠に油を注ぐ人と見破り、その忠盛の行動に感服した白河法皇が褒美として、忠盛に祇園女御を与えたとする話は有名。(「忠盛灯籠」)
そしてさらに続けて、白河法皇が忠盛に対して、『うめらん子、女子ならば朕が子にせん、男子ならば忠盛の子が子にして弓矢とる身にしたてよ』(『日本古典文學大系32 平家物語 上』高木市之助 小澤正夫 渥美かをる 金田一春彦 校注 岩波書店)と話したとされていることから平清盛皇胤説が流布される。
平清盛が母祇園女御を祀る厳島神社
平清盛が母祇園女御のため厳島神社の神を祀ったのが始まり。 社前の石鳥居は笠木が唐 … 続きを読む →
「ねねの道」を歩いていて、路地の奥に目を引くこの円形、あまりにも目立っています。
ここは高台寺の塔頭「岡林院(こうりんいん)」の参道。
奥まで進むとそこは岡林院の表門。
非公開寺院ですので中に入ることはできません。
陽に透かしたモミジがきれいです。
石塀小路はやはり火点し頃にならないと風情が出ないように思う。
石塀小路の土地は、当初は圓徳院のの所有地でしたが、明治時代になって税金を納める必要が出てきたため、圓徳院庭園の一部を取り崩して、通り抜けの道を造りました。
現在のような姿に完成したのは、昭和になって京都から市電が廃止されるようになって、市電に使われていた石畳をここに敷いたことからのようです。
二年坂の名の由来には二つの説があって、三年坂に比べて小さな坂という事から来ているという説と大同2年に出来たからとする説がある。
二年坂の中ほど、大正時代の代表的な画家・詩人である竹久夢二が、1917年(大正6年)に愛情関係のもつれから東京から逃れて来て暮らしていた所。
恋人彦乃が訪れるまでの数ヶ月をここで過ごした。
京都市の花、サトザクラをデザインした道路照明関係ケーブルの埋設管蓋。
この界隈には電柱が有りませんでした。
高台寺は秀吉の菩提を弔う為に正室ねねが建立。
ねねは高台寺の塔頭(たっちゅう) 「圓徳院」で晩年を過ごしたそうです。
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