明帝として仰がれるとともに、和歌や楽曲などの文化振興にも努められた村上天皇を祀る。
后妃は陽気な嫉妬で有名な藤原安子
気づかずに通り過ぎてしまいそうな小さなお社です。
平安時代末期、琵琶の名人であった藤原師長は唐に渡って琵琶の奥義を極めたいと思い、都を出て、須磨まで来た。
その夜、村上天皇と梨壺女御の霊が現れ琵琶の奥義を伝えたので、師長は入唐を思いとどまり、名器「獅子丸」を埋めて都に帰った。
この伝承を題材として能の「絃上」(げんじょう)(玄象)が作られた。
この伝承に基づき、土地の人が村上天皇を祀ったのが当社であると伝えられる。
師長が琵琶を埋めたという琵琶塚は前方後円墳で、現在は一部面影をのこすものの山陽電鉄本線の線路によって二分されている。
文化を無視した許しがたい暴挙と言える。
一方、藤原師長の政治面での一生は非常に浮沈の激しいものとなっているる
当時の執政である左大臣・頼長の息子であったことに加えて、祖父・忠実の猶子となったことで、早くから伊予権守、右近衛中将などを歴任。
仁平元年(1151年)には14歳の若さで参議として公卿に列し、久寿元年(1154年)には権中納言に昇進。
しかし保元元年(1156年)に父の頼長が崇徳上皇と手を結んで保元の乱を起こし敗死したため、連座して師長は官位を剥奪されて土佐国(一説には同国幡多郡)に流罪に処される。
長寛2年(1164年)6月に罪を赦されて京都に戻り、閏10月には本位(従二位)に復す。
安元3年(1177年)には左大臣・大炊御門経宗、右大臣・九条兼実を飛び越えて従一位・太政大臣に昇進。
だが、近衛基通との確執が表面化するに従い、基通を支援する平家との衝突を招き、治承3年(1179年)に平清盛のクーデター(治承三年の政変)が起こると、清盛によって関白・松殿基房とともに解官された上、師長は尾張国に流罪に処された。
その後、師長は配地で出家して理覚と号する。
3年後に帰京を許されて建久3年(1192年)に55歳で薨去。
天降稲荷大明神
村上帝社へのアクセス、行き方歩き方
住所:神戸市須磨区須磨浦通4
JR「須磨駅」下車、東へ徒歩2分
山陽電車「山陽須磨駅」下車、東へ徒歩1分