お昼の後は木漏れ日の中を麓の寺院巡り。
今庄の町しか歩かない人にはない楽しみです。
今庄観音堂 (天童山 円通寺) は木漏れ日の中。
参道石段入口に、芭蕉の句が書かれていました。
義仲の 寝覚の山か 月かなし
観音堂後方には、築城年代は定かではないが寿永2年(1183年)木曽義仲が平惟盛を迎え撃つ為に仁科守弘に命じて築城したという燧(ひうち)ヶ城があります。
頭の無くなった灯籠、何か自然でいい。
『福井県南条郡誌』は、白城神社について次のように記載している。
白城神社は『古名考』によれば「或云白木浦の社乎、案南条郡今庄町に新羅(しらぎ)明神あり是なるべし。
今庄も古く今城と書けり。
此白城の誤転する乎。此町の東に川あり日野川と云此即古の叔羅河なり。
叔羅は即ちしらきなるべし」
これによれば、今庄町は新羅(しらき)から白城→今城→今庄と変わってきたことになる。
白城はしらぎと呼ばれたであろうし、今城はいまきからいまじょうに変わったということになる。
今城(いまき)は今来の漢人を連想させる(五世紀後半の雄略天皇の時代)。
結論として、今庄町について『南条郡誌』は「要するに今庄の地は、新羅民族の移住地として開け、次いで駅伝所在の要地となった」とまとめている。
いずれにせよ、古代朝鮮の新羅の民が敦賀地方から今庄に入り、日野川上流域を開発したものであろう。
新羅神社や白鬚神社は渡来人の奉祀に始まる神々と関係が深いようである。
中でも、当地方には秦氏が集住していたと考えられている。
足羽郡や三方郡・遠敷郡に多くの秦氏の集団跡が確認されている。
今庄の基盤を築いたのが領主の赤座直保(吉家)である。
直保の先祖赤座氏は現在の南越前町新道の領主で、赤座景秋は1492年新道に菩提寺として棟岳寺を開創したと伝えられている。
後の赤座直保は豊臣秀吉に従い、小田原征伐に貢献したことにより、今庄を与えられ、1590年居館を今庄に移すと共に、棟岳寺を今庄の現在地に移し、今庄宿の基盤を築いている。
その後、1603年加賀藩主・前田利長の命により、赤座直保も加賀へ移ると棟岳寺も加賀へ移っている。
その後、今庄にも棟岳寺が再興され、赤座氏の準菩提寺となっている。
現在の本堂は1818年建立の禅寺様式の特徴を残している。
現在、今庄宿の活性化に向けてプロジェクトが進行中である。
今日は何かお祭りがあるようだ、眠気を催す午後のひと時。
寺の裏に回ると木漏れ日が温かそう。
この辺りの塀や石垣は真っ赤だ。
土中にそういう菌がいるのだろう、医学生理学賞の大村智氏に連絡したらまたまた、ノーベル賞級の発見につながるかも。