八坂神社の境内で大雅が三味線を弾いて唄うと、玉瀾は琴を弾じて合奏し、ともに仲良く楽しんでいた。
時代祭での玉蘭
1728-1784
江戸中期の女流画家。
京都に生まれる。
旧姓は徳山、名は町、歌集『梶の葉』で知られる歌人梶を祖母に、母も同じく歌人の百合。
池大雅の妻となり、松風柳沢淇園に学んだ画は大雅に似ており、蘭竹梅菊を得意とした。
後に大雅に南画を学び、当時一流の女流画家として知られた。
池大雅は、享保8年(1723)京都洛北の深泥が池(みどろがいけ)の農家に生まれました。
23歳の頃には、八坂神社の境内で参詣人に画扇を売る大道絵師になっていました。
時を同じくして境内に百合という女性が茶店を出して、短冊などに歌を書いて売っていたのですが、こちらの方ばかりが繁盛し、大雅の画はさっぱり売れませんでした。
気の毒に思った百合が絵を2、3枚買い求めたところ、あまりにも立派な筆使いに驚き、その才能を見込んで、娘、玉瀾(ぎょくらん)の婿にし、付近の下河原鳥居前(現在の畑中旅館のあたりと推定される)に住まわせることにしました。
その生活を営んだ住まいを葛覃居(かったんきょ)と称します。
八畳ばかりの座敷に取り次ぎがあるだけの狭い家でありましたが、狭いながらも楽しい我が家であったようです。
子供に恵まれない二人は、大雅が三味線を弾いて唄うと、玉瀾は琴を弾じて合奏し、ともに仲良く楽しんでいたということです。
大雅は、安永5年(1776)54歳で没し、京都西陣の浄光寺に葬られ、妻、玉瀾もその8年後、天明4年(1784)57歳で没しました。
浄光寺
住所:京都市上京区寺之内通千本東入新猪熊町421
TEL:075-431-1887
時代祭でのお梶
梶女は元禄から宝永のころの人、その家集『梶の葉』には友禅染の創始者ともいわれる知恩院前の宮崎友禅斎が多数の挿絵を描いた。
祇園梶子(ぎおんかじこ、生没年不明)は江戸時代中期の歌人。
本名は梶。本姓不明。梶女とも。
梶子は生涯独身であったが、百合という養女を貰い、茶店を継がした。
百合も養母梶子と同じく歌才に恵まれ、歌集『佐遊李葉』を残している。
百合は旗本徳山氏との間に一女町をもうけており、この町が後に池大雅と結婚し自らも画家として知られる玉蘭である。
梶子、百合、町の三人で祇園三女として知られた
まだ鳥居内の中村楼は応仁の乱後に、円山にぽうっと灯をともした二軒茶屋の一つ。
鴨川の河原からその灯が見えて誰もがほっと一息ついたという。
ところで、この茶屋は「祇園三女」といわれて、親、娘、孫の三代の歌人、梶女、百合女、町女に由縁するところであった。
梶女は元禄から宝永のころの人、その家集『梶の葉』には友禅染の創始者ともいわれる知恩院前の宮崎友禅斎が多数の挿絵を描いた。
百合女は梶女の養女で、その茶店を継ぎ町女を産む。
町女は南画家池大雅(いけのたいが)に嫁ぎ仲むつまじく書画を楽しみ、歌を詠んだ。
号を玉瀾というが、中村楼では現在、その姿を描いた敷紙を料理の膳に使っている。
雪ならば梢にとめてあすやみむよるのあられの音のみにして
梶女
見るひとのおしむ心をさぞとしもしらずや花をさそふはるかぜ
百合女
なつの夜のあさ沢ぬまのみなぞこに影もみだれてほたるとびかふ
町女
二軒茶屋 中村楼
住所:京都市東山区祇園町八坂神社鳥居内
TEL:075-561-0016 /FAX:075-541-6738
この頃、祇園社近くの道端にムシロを敷いて自作の書画を売る貧乏画家がいました。
百合はこの青年の天分を感じ取り、玉瀾(ぎょくらん)の婿にし、付近の下河原鳥居前(現在の畑中旅館のあたりと推定される)に住まわせることにしました。
彼がやがて、江戸中期の文人画の名手となる池大雅です。
町も、玉瀾と号して画家、歌人として知られるようになります。
百合さんにとって、二人の仲睦まじい姿を見て過ごす晩年は、幸せな日々だったのではないでしょうか。
娘 玉瀾と共に西雲院の墓に眠っています。
ぎおん畑中
住所:京都市東山区祇園八坂神社南門前
TEL:075-541-5315 /FAX:075-551-0553
金戒光明寺 西雲院(さいうんいん)
住所:京都市左京区黒谷町121
電話:075-771-3175
FAX:075-752-1798
池大雅の世間離れをした大雅のエピソード。
大雅が欧州に旅をしたときのこと、馬をやとって乗ってゆくと、酒屋の前に来た。
馬方が一杯飲みたそうな顔をしたので、馬上の大雅は、「じゃ飲んでくるがいい。俺はこうして待っている」と言った。
彼は性来酒を好まないのだ。
馬方はいそいそと酒屋ののれんをくぐったが、一杯飲んで出てくると、馬も大雅もどこにもいない。
「これは大変」
と四方八方探したが行方がわからない。
がっかりして、とぼとぼ家に戻ったところが、ふしぎなことに、厩で馬のいななきが聞こえる。
「ややっ」
驚いて飛んでいくと、大雅を乗せたまま、馬が厩に入っているではないか。
「や、どうしてここに」
と聞くと、大雅いわく、
「いや、馬が歩くままにしていたら、ここまで来てしまったのさ」
すでに日は暮れてしまったので、とうとうその夜は馬方の家に泊った。
その時のお礼にといっておいて行った絵が、その後も長く残っていたという。
円山音楽堂の西南角にあり、現在「和光同塵」「大雅堂旧址」としるした石碑が建っています。
ここは近世画の名手、池大雅(いけのたいが)の死後、その門弟たちによって建てられた大雅堂の旧址です。
大雅堂は、玉瀾の死後まもなく門弟たちが大雅の遺品を整理し、その資金を元にして旧居に近い雙林寺境内に建てられました。(現在は円山公園です)
私設美術館とでもいったところでしょうか。
建物は二階建て、階上、階下とも六畳の広さで、別室に金銅製の観音像が安置されていました。しかしながら、明治36年(1903)惜しまれながら取り壊されてしまいました。
和光同塵
自分の才能や徳を隠して、世俗の中に交じってつつしみ深く、目立たないように暮らす、といったような意味か。