ただ今5時41分、日の出まではまだ時間がある。
東の空は焼けているが辺りはまだ薄暗い。
7~8分咲といったところか。
毎日散歩する道もこの時期ばかりは華やかだ。
この辺りは真澄という地区ですぐ近くに大阪市立真住中学校がある。
学校周辺を指す地名として、『摂津風土記』に「真住吉国(ますみのえ)」とあることから、校名が採用されている。
すぐ近くには大阪市立清江小学校がある。
どちらも古い由緒ある地名だ。
「住吉」の読みは、現在は「スミヨシ」だが、元々は「スミノエ(スミエ)」だった。
例えば奈良時代以前に成立した『万葉集』には「住吉」のほか「住江」「墨江」「清江」「須美乃江」という表記も見えるが、平安時代に成立した『和名抄』にはすでに「須三與之」と記されている。
本居宣長の『古事記伝』以来の通説では、元々の「スミノエ」に「住江」「墨江」「清江」「住吉」等の表記があてられた中で「住吉」が一般化し、それが音に転じて平安時代頃から「スミヨシ」の呼称が一般化したと解されている(類例に日吉大社<ヒエ→ヒヨシ>)。
ただし過渡期の平安時代には両者の使い分けも見られ、歌枕としての扱いでは、「スミノエ」は江を指し「スミヨシ」は社・浦・里・浜を指すと歌学書にはある。
元々の読みである「スミノエ」の語義について、『摂津国風土記』逸文では、筑紫からお連れした住吉神がこの地に住むと言ったため、神功皇后が「真住吉住吉国(まさに住み吉き住吉国)」と讃称したことに由来とする地名起源説話を載せている。
一方で歴史考証学上では、「清らかな入り江(=澄み江)」を原義とする説が有力視されている。
実際に住吉大社南側の細江川(細井川)旧河口部には入り江があったと見られ、古代にその地に整備された住吉津(墨江津)は難波津とともに外交上の要港として機能し、住吉大社の成立や発展に深く関わったと考えられている。
住吉川(すみよしがわ)と姫松橋(ひめまつばし)
住吉川はかつて住吉大社の西の入江で、住吉浦、出見の浜とも云われていま した。
木津川や新大和川が運ぶ土砂が堆積してくるのに伴い、江戸時代の中 頃に住吉浦でも新田開発が行われ浜の両岸が埋め立てられて狭くなり、住吉川と呼ばれる水路となりました。
今の住吉川は細江川と十三間(堀)川を水源としており、洪水、高潮などを防 ぐ為、新なにわ筋の水門や十三間(堀)川の亀甲の樋門(かめのこうのひもん)を設けています。
住吉川の両岸には、桜並木があり、川辺ではサギ、カモ、セキレイ等の鳥の姿 も見ることができます。
「花と緑の休息ゾーン」、「立木と水の散策ゾーン」が設けられ、市民の憩いの場になっています。
住吉川に架かる橋の一つ「姫松橋」は昭和60(1985)年に架け替えられたものです。
北詰西側に顕彰碑があり、次のような古今集の歌が記されています。
“我見ても ひさしく成りぬ 住の江の 岸の姫松 いくよへむらむ”
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