少し早く右折してしまったようだ、新日鉄堺のほうに向かっている、どこかで国道へ出なければ。
転炉溶鋼鍋
この鍋は、溶けた鉄を運ぶためのもの。
一度に、180トンの溶けた鉄を運ぶことができます。
新日鉄堺製鉄所で昭和48年から平成2年まで使われていたもの。
巨大なプラントが・・・・
浅香山通りを国道へ向かう、前方、二上山。
室町時代から安土桃山時代にかけて、天然の良港であった堺港は海外貿易港としても発展しました。
後に大和川の付け替えにより衰退しましたが、江戸の商人と堺の人々により修築されたのが現在の堺旧港の原型です。
右手側に目をやれば、対岸に立地している、日本ノボパン工業という会社の、大規模なんべを利用して描かれている、堺の歴史文化と観光の魅力を表現する、日本最大級の壁画を望むことができます。
その大波止に、明治10年(1877年)堺の人々の寄付などにより高さ約12mの六角錘形の木造洋式灯台が築造されました。
灯台はおよそ1世紀にわたって堺港に出入りする船の航海の安全を守ってきましたが、周辺の埋め立てが進んだ昭和43年(1968年)にその役割を終えました。
土台の石積みは堺旧港の港湾整備と併せて備前国(現在の岡山県)出身の石工・継国真吉が携わり、建築工事については、堺在住の大工・大眉佐太郎が行いました。
また、灯部の点灯機械の取り付けは、横浜の燈台寮より、バービエール社(フランス)の機器の購入を行い、英国人技師のビグルストーンが携わりました。
旧堺港に位置する旧堺燈台は、明治10年(1877年)に建築された建物で、所在を変えずに現存する木造洋式燈台としては、日本最古の燈台となっています。
旧堺燈台の夕日では、日没前に数十分ほど体験できる薄明の時間帯、いわゆる“マジックアワー”も必見です。
オレンジ色の空と旧堺燈台のシルエットが組み合わさって幻想的な風景を演出します。
約100年に渡り、大阪港を照らし続けましたが、周辺の埋立地が広がるにつれてその役割が果たせないようになり、昭和43年(1968年)には、その灯りを消すこととなります。
しかし、貴重な木造洋式燈台である事から、昭和47年(1972年)には国指定史跡になり、現在も堺市周辺の発展を見守り続けています。
北波止突堤には、堺市のシンボルとも言える「龍女神像(りゅうじょしんぞう)」が高くそびえ立ちます。
これは、明治36年(1903年)の内国勧業博覧会の際、堺会場の東洋一を誇った大浜水族館前に設置されていたものを、平成12年(2000年)7月に復元建築されたもの。
高さ16mの台座の上に、10mのブロンズ製の乙姫像が立っており、堺市の平安を見守っているかのようです。
さらに龍女神像と向き合うように立っているのが「呂宋助左衛門之像」。
呂宋助左衛門は、戦国時代の堺の伝説的貿易商人で、1978年(昭和53年)のNHK大河ドラマ『黄金の日日』の主人公にもなったので、ご記憶の方も多いと思います。
大阪屈指の夕日スポットである「堺旧港」へは、南海本線堺駅から竪川に架かる「南蛮橋」を渡って海側に折れると、堺旧港・親水プロムナードへ行くことができます。
橋の上には、等身大の南蛮人像があり、かつての自由貿易都市・堺の集落を、500年以上にわたって守り続けてきた“環濠”の内川・土居川方面を望んでいます。
ちなみに“南蛮人”とは、室町時代末期から江戸時代にかけて、日本に渡来したポルトガル人・スペイン人を指しています。
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