この記事は誤って消去した記事の再掲です。
島原は京都駅からJR山陰本線で2つ目の駅、丹波口駅から南へ10分ほど歩いたところにあります。
島原は、我国最初の花街で、室町時代に足利義満が現在の東洞院通七条下ルに許可した傾城町が日本の公娼地の始まりといわれる。
夕霧大夫はいつ、どういう風に嶋原に入ったか不明であるが「扇屋」の太夫となり、のちに扇屋が大坂(大阪市)の新町に移転したため、新町の太夫となる。
毎年11月第2日曜日に清涼寺にて「夕霧供養祭」が催され、本堂での法要、嶋原太夫による奉納舞、太夫道中や墓参が行われる。
島原大門
寛永18年(1641)に開設された島原は、当初掘と塀で囲まれ、東北角の大門のみであったが、享保17年(1732)に西の大門が設けられた。
その後東北角の、大門は、明和3年(1766)に島原の中央を東西に位置する道筋と呼ばれる道の東端である現在地に付け替えられた。
当初の門については詳らかでないが、享保14年(1729)には、冠木門であったと考えられ、その後塀重門、さらに腕木門となった。
嘉永7年(1854)の島原東半分の大火では、この大門も焼失した。
大火後、簡易な冠木門で再建されたが、慶応3年(1867)には、神社仏閣なみの本格的な高麗門として立て替えられた。
これが現在の大門である。
昭和61年(1986)に京都市登録有形文化財として登録された。
島原遊廓の正門にあたる大門には、現在も「出口の柳」が植えてあります。
これは、二条柳馬場にあった頃からの遺風で、何度か植え替えられながら現在も立っています。
江戸の吉原にも「見返り柳」があり、それは島原の「出口の柳」を模したものだそうです。
また、大阪には柳小路という遊廓が、九州の博多にも柳町という色街があったそうですが、多分、京都の二条柳馬場の「柳町」がルーツになっているのでしょう。
『見返り柳』の横の垣根は『さらば垣根』つまり遊女との別れを惜しんだ情景がその呼び名となって残ってる
また、門の横には石の水槽の上に桶が積み上げられている。
「この桶は火消し用です。
火事が起こるとこの桶に水を汲んでバケツリレーのようにして消火したものです。」
大門脇には幕末の女流歌人蓮月尼(1791~1875)が、島原大門の柳を
『嶋原のでぐちのやなぎをみてなつかしき やなぎのまゆの春風に なびくほかげや さとの夕ぐれ』と和歌に遺している。
かつては置屋が約50件、揚屋が約20件あった。今、唯一残っている揚屋は「角屋」。
日本で唯一現存する揚屋様式の建物で、期間限定で公開している。
揚屋「角屋」は太夫・芸妓などを一切かかえず、置屋から太夫等を呼んで宴会を催す場所でした。
現在の料亭にあたる店です。
建物は、揚屋建築唯一の遺構として重要文化財に指定されている。
角屋の東北角にある「久坂玄瑞の密議の角屋」と記した石碑。
幕末期の角屋は、西郷隆盛ら尊王派の志士が密議を凝らした場所でした。
石碑の左にある立て札には、主として豪商からの軍用金調達のための接待の場として使用したとあります。
豪商達がバックについていた長州や薩摩の方が金払いが良く、島原でもてたそうだ。
遊びだけでなく、各藩の会議の場としても使われた揚屋・角屋。
時には長州の志士達と新選組の来場が重なることもあり、女達は鉢合わさせないように気を使ったとか。
また、ここは新選組の隊士が遊んだ場所でもありました。
中でも、芹沢鴨との因縁は深いものがあります。
芹沢鴨は角屋での大宴会の後、酔って帰ったところを暗殺されている。
伊東甲子太郎、斉藤一、永倉新八が3日間居続けて近藤・土方らの怒りを買ったのもこの角屋である。
それだけ魅力的な場所なのだろう。
現在は、「角屋もてなしの文化美術館」として一般公開もされているが残念ながら当日は休館日であった。
住所:下京区西屋敷揚屋町32
TEL:075-351-0024
開館期間
3月15日~7月18日、9月15日~12月15日
開館時間
午前10時~午後4時
休館日
月曜日(祝日の場合翌日)
平安時代、京の中央に朱雀大路が貫き、その七条以北の東西にふたつの鴻臚館が設けられていたが、この島原付近は東鴻臚館にあたる。
当時この館を利用していたのは、唐ではなく渤海国(ぼっかいこく)の使者にかぎられていた。
当時の政府は、渤海客を大いに歓待し、日本の国威を示すために林邑楽(りんゆうがく)を演奏したり、詩文の会などを催していたが、延喜20(920)年頃には廃せられた。
与謝蕪村(よさ ぶそん1716-1764年)は「白梅や墨芳しき鴻臚館」と鴻臚館が外国使節を接待する迎賓館として隆盛した頃をしのんだ俳句を詠んでいる。
また源氏物語の「桐壷」巻では、光源氏を東宮にしたいが反対勢力を恐れて悩む桐壺の帝が、渤海国(ぼっかいこく698-926年)から高麗人(こまびと)の優れた人相見が鴻臚館に来ていると聞き、光源氏を他人になりすまさせて内密に鴻臚館に遣わし将来を占ってもらったという一節がある。
現在は輪違屋のみが茶屋営業を行っている。
置屋「輪違屋」は太夫・芸妓を派遣する店です。
「太夫」さんとは「舞妓」さんや「芸妓」さんとはまた違っていて、もう一つ特別な存在。
その昔「正五位」の官位を頂き御所に上がる事のできた存在でした。
正五位というと、貴族並の扱いと言う事になります。
着物も着付けも立ち姿も違うので、「芸妓」さんから「太夫」さんになるのではなく、「太夫」さんは最初から「太夫」さんとして育てられるそうです。
嶋原からは、八千代太夫、吉野太夫、夕霧太夫、大橋太夫、桜木太夫などの名妓が輩出した。
また、戦後在籍していた太夫に、夕霧太夫、高砂太夫、九重太夫、薄雲太夫、若雲太夫、春日太夫、花雲太夫、花琴太夫などがいる。
祇園の舞妓、芸妓と同様の白塗りの厚化粧で、口紅は下唇のみに塗り、必ずお歯黒を付け引眉しないので江戸時代の半元服の習慣が今も続いている。
公家文化の影響とも考えられ原則として鬘(かつら)を被らず、自毛で日本髪を結う。
単に遊宴を事とするにとどまらず和歌、俳諧等の文芸も盛んで、ことに江戸中期には島原俳壇が形成されるほどの活況を呈していた。
島原に伝わる伝統儀式「かしの式」は今でもあります。
太夫が客と接見する際に杯を使って名を告げる儀式「かしの式」
画像は清凉寺で夕霧太夫を偲んで行われる夕霧祭に臨む「輪違屋」の如月太夫。
島原の入口は、当初東の大門のみであったが、享保17年(1732)に西側中央部に西門が設けられた。
それは両側に門柱を立てただけの簡略なものであったが、天保13年(1842)に現在位置に移され、構えも高麗門型となった。
近年まで島原の西門として偉観を伝えていたが、昭和52年(1977)、輪禍によって全壊した。
3年後に門柱のみが復元されたが、平成10年(1998)に再度の輪禍に見舞われて、それも倒壊した。
現在は島原西門の由来と往時の形容を刻して石碑が建立されている。
島原住吉神社は、もと島原中堂寺町の住吉屋太兵衛の自宅で祀っていた住吉大明神が、霊験あらたかにして良縁の御利益があり、参詣者夥しきため、享保17年(1732)祭神を島原の西北に遷座し建立されたものである。
その規模は、南は道筋(島原中央の東西道)から、北は島原の北端にまで及び、広大な境内地を有した。
爾来島原の鎮守の神として崇められ、例祭とともに、太夫・芸妓等の仮装行列である「練りもの」が盛大に行われていた。
ところが、明治維新後の廃仏毀釈により、神社株を持たない当社は廃社となり、祭神を歌舞練場内に祀ることとなった。
島原へのアクセス、行き方歩き方
JR「丹波口駅」下車、徒歩7分
市バス「島原口」「梅小路公園前」下車、徒歩10分