いきなりうっそうとした森が現れる。
これがなんとなく不思議な感じがする空間となっている。
普通の森ではなく、神社や寺の参道とも少し違う。
神聖な感じではなく、なんとなく捨て置かれて荒れている印象を受けた。
道もかなりデコボコで、苔むしてもいて、訪れる人の少なさを思わせた。
三井寺の賑わいとはかけ離れている。
2、3分も歩くと、石垣があって、境内へ出る。
このあたりは戦国時代の山城跡のような雰囲気だ。
かつての園城寺の寺域北端、現在では園城寺の境内より500メートル程北に行った所には、南北朝時代の貞和3年(1347年)に足利尊氏の寄進を得て建立されたと伝わる新羅善神堂が存在する。
これは堂と名が付くものの、園城寺の守護神である新羅明神(しんらみょうじん)を祀った鎮守社、すなわち神社である。
園城寺が秀吉の命により欠所となった際、他の堂宇は全て破却されてしまったが、新羅善神堂だけはその祟りを恐れられ、唯一取り払われずに残された。
故に、園城寺の堂宇の中では現存最古のものである。
その規模は桁行三間、梁間三間の三間社。
平入りの檜皮葺切妻屋根を前方に伸ばした流造(ながれづくり)で、一間の向拝が付属する、典型的な室町時代の神社建築だ。
新羅明神はその名の通り新羅国の神とされ、平安時代に園城寺を再興した円珍(えんちん)が唐から帰国する際、船中に現れてその加護を約束したという。
新羅明神座像は、白塗りの顔に、血走り垂れ下がった目、高い鼻、細長く奇妙に曲がった指等、その姿は極めて異形であるが、神像として高い評価を受け、国宝に指定されている。
隙間からのぞくと中は草が伸びかなり放置された状態。
それにしても、壬申の乱が百済側の天智天皇・大友皇子と新羅側の大海皇子との争いだったとするならば、いくら200年近く経っているとはいえ、大友氏の神経を逆なでするような神をこの場所に祀るだろうかという疑問は残る。
井沢説でいくと、三井寺を与多王に建てさせたのは天武天皇(大海人皇子)で、天智天皇の怨霊を抑えるためだったとしている。
新羅の神を祀ったのも、あえて敵対する神でにらみを効かせるためだったのだという。
円珍の話は後付けの作り話だというのだ。
新羅善神堂はぐるりと取り囲まれていて、中に入ることはできない。
新羅明神坐像も、当然見ることは叶わない。
2008年、大阪市立美術館の特別展示で50年ぶりに公開されたそうだ。
ただ、写真撮影はもちろん禁止で、ポスターなどにも写真を載せない徹底ぶりが少し引っかかる。
三井寺は新羅善神堂をあまり重要視していないか、あえて触れないようにしているようなところが感じられる。
朝鮮半島との関係をあまり大っぴらにしたくないとでもいうのだろうか。
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新羅善神堂へのアクセス、行きかた歩き方
京阪電鉄石山坂本線「別所駅」より徒歩約5分。