放虎原は江戸時代大村藩の刑罰場であった所で、1624年、1630年と1658年に日本に潜伏していた宣教師らと大勢のキリシタンが処刑された。
なぜこのような悲劇が再び起きたのか、時代背景とともに見てみよう。
この殉教レリーフは、田中秀和氏の作。
日本人キリシタン7人と外国人宣教師3人が浮き彫りになっています。
中央で刀を両手で持ち上げている日本信徒の姿は、天に命を捧げることをあらわしているのでしょうか。
「日本二百五福者殉教顕彰碑」と書かれています。
碑の裏側にもレリーフがほどこされており、天使が信徒たちに訪れている様子が描かれています。
よく見ると、背景には多くの信徒たちが手首を縛られつながれて、牢屋に引き立てられていく姿も見えます。
下には「大村潜伏キリスト教徒殉教顕彰碑」と題が書かれています。
大規模なキリシタンの弾圧「郡崩れ」
1657年、大村領内で「郡崩れ(こおりくずれ)」という事件が起こりました。
これは、長崎奉行の黒川与兵衛が、その20年前に起こった「島原の乱」のようなキリシタンを中心とした一揆が再び起こることを恐れ、大村藩に命じて領内のキリシタンを摘発し処刑した事件のこと。
大村の郡村(こおりむら・現在の大村市)を中心にキリシタン608人が捕らえられ、棄教を誓った99人は釈放されましたが、厳しい取り調べ中に78人が死亡、20人が永牢(終身刑)、411人が斬首という厳しい処罰が下されました(人数については諸説ある)。
翌年には、斬首を言い渡された411名のうち131人が大村の放虎原(ほうこばる)斬罪所で処刑された。
見せしめとして旧長崎街道沿いの獄門所で、処刑されたキリシタン131人の首が約1ヶ月間さらされたといいます。
その後、遺体が再びよみがえらないようにと、首と胴体を別々に、南北に約500メートル離れた位置に首塚・胴塚をつくって埋葬しました。
キリシタン弾圧が強化された大村では、遺品や墓石などが次々に破壊され、華やかだった時代のキリシタン文化は、あとかたもなく消えていきました。
あの悪夢のような「島原の乱」から20年、なぜ再び悲劇が繰り返されたのか、時代背景と家康以後の徳川体制の変化、特徴を見てみます。
長くなりますが司馬遼太郎の街道をゆく〈17〉島原・天草の諸道 (朝日文庫)を引用します。
家康後の徳川体制の特徴がよくわかると思います。
島原の松倉氏も、天草の寺沢氏も、武器を持たぬ農民をなめきっていたし、さらにはかれらが元切支丹であるということで、人間として扱わなくて済むという支配者側の気分があった。
切支丹は外国と通牒して日本を略取しようとする手先であるという常識が、支配層に一般的になっていた。
もとは、幕府の官僚が流したものであろう。
たしかに、ポルトガルはともかく、スペインはその気配が十分にあった。
しかし、切支丹を禁制した秀吉や、それを踏襲した家康には、外国に略取される。
などという懸念も恐怖もなかった。
秀吉にいたっては、スペインが来れば水際で撃退し、むしろ逆にその本拠地のフィリピンに遠征軍を送ってやるという猛々しい対外伸張主義者であったから、フィリピンの総督の方がむしろ秀吉を恐れていた。
秀吉政権を継承した家康の場合、対外伸張主義は性格においても無かった。
その上、受け身の将棋にかけては卓抜した計算能力をもっていたこの人物は、対外侵略など、自分の政権のために百害あって一利もないということをよく知っていた。
かれがまだ秀吉政権の筆頭大名だったころ、秀吉が朝鮮侵略をきめたとき、不快とも何とも言いようのない言動をその家臣に対して示したことは、家康側の傍証的資料にある。
同時に、これは証拠のないことだが、これで、豊臣政権は、たががゆるんでほろびるだろうと思ったのではないか。
家康には、秀吉ふうの法螺くさい猛気はなかったが、つねに自他についての安定した計算能力が働いていた。
かれはフィリピンにおけるスペインの駐屯兵力がどれほど貧弱なものであるかを知っていた。
たとえ日本に上陸してきたも、薩摩島津勢一手で片付く程度のものであった。
また、もしスペイン国の国王が物狂いして、本国で艦隊を仕立て、大軍を送りつけてくるにしても、一万人を送るのには国力を傾けるほどの大艦隊を建造せねばならず、たとえぶじ極東の島国の九州の土を踏んだとしても、一万人程度のスペイン兵を殲滅するのに、九州の三つ四つの大名を動かすだけで十分であると知っていたであろう。
家康は周到な男であった。
右のことだけではたかをくくらず、大坂ノ役のあと、九州にはとくに大きな単位の大名を置いたという思考の中に、万一の外寇に備えたという要素が入っていたと思われる。
例えばそれらの大名というのは、
筑前福岡の黒田氏52万3千石。
築後久留米の田中氏32万5千石(のち久留米は有馬氏21万石)。
豊前佐賀の鍋島氏35万7千石。
薩摩の島津氏72万8千石(のち77万石)。
といったようなかたちで、他地方にくらべ、壮観というほかない。
徳川家の大名配置の体制は、中国・四国をも含めて石高の単位が大きく、東に行くにつれて小さくなってゆく。
加賀の前田氏119万2千石(大坂ノ役の直後)、仙台の伊達氏61万5千石(同右)は、例外的なものである。
このことは、国内統御の計算に加えて、西から外国勢力がやってくるという想定が、計算要素の中に十分入っていたかと思える。
しかも家康は朝鮮と修好した。
その修好の思想を、かれの官僚たちにも徹底させたはずである。
この方針は、江戸期を通じて不動のものになった。
秀吉の侵略によって荒廃させられた朝鮮は、日本への復讐の余力は持たなかったが、その宗主国である明国に報復を依頼するという可能性が絶無とは言えない。
その程度の国際外交上の想像力が家康になかったと考える方がむしろ不自然であり、家康の対朝鮮修好の手厚さも、国内統治の諸要素を基礎数式としつつ、十分に考えぬかれたものであったにちがいない。
対南方関係についても、家康は可能な限りの情報を吸収していた。
安南国と修好したのは関ヶ原の翌年であり、その翌々年にはルソン(フィリピン)やカンボジアと修好した。
対西洋情報については、日本に漂着したウィリアム・アダムスを外交顧問とし、江戸橋に屋敷をあたえ、250石の知行をあたえた。
この航海者は英国人で、オランダの東印度会社に雇われている立場であるために、アジアに進出している西洋諸国の事情に明るい履歴をもっていた。
以上のような現況や理由から、家康が、新教国や旧教国のアジアにおける意図や軍事力を十分知り、それを恐れることがなかったのは、疑いのないところであろう。
家康の死は、徳川体制における唯一の外交家の死でもあった。
対外情報をあつめるだけでなく、それについての判断もした。
判断の能力を持つ唯一の人物であったかもしれず、すくなくとも、外交について日本国の方針、対応を決める唯一の人でもあった。
家康の死後、二代目の秀忠が16年生きた。
家法については、三河以来の法を守るように。
というのが、家康の遺言であったといわれる。
秀忠は平凡で実直な人柄であったが、早くから家康とともにあって、その思考法を身に着けていた。
その周囲の人々も家康の考え方をよく知っていたから、秀忠の死までは、家康時代がつづいたということがいえる。
秀忠と三代家光の相続が、徳川体制にとって重要な劃期(かっき)であった。
秀忠の死(1632)こそ、戦国以来の松平=徳川というエネルギー(たとえば物事を広い視野で見、柔軟に動く活性的な政治能力)の終焉というべきものであった。
あとは、殿中育ちの齢若い家光の世である。
みずからの判断力を持たない家光を擁してゆくためには、有能な官僚集団が構成され、制度も精密になった。
「切支丹はおそろしい連中である。かれらは外国勢力をよびこんで国を売ることを考えている」
などという考え方が一般化するのがこの時代である。
いわば「家康」を持たない 大方針の決定者を持たない 幕府官僚団にとって、祖法(たとえばキリシタン禁制)を墨守するためには、一種の政治的な作り話を流布し、締め上げだけをきびしくするしかなかった。
切支丹に対する弾圧の本格化は秀忠の晩年から助走がはじまり、家光とその官僚団の時代になって惨烈をきわめるようになる。
国家というものを大きな立場から寛濶(かんかつ)に運営してなお統御できるという自信がなくなった場合 政治が矮小化した場合 国内における少数分子 異教徒 への締めあげが凄惨なものになってゆくものらしい。
むろん、家光政権の不安は、それだけではない。
豊臣恩顧の大名の取りつぶしによる牢人の増加とか、商品経済の勃興、または幕府が公役によって大名の財政を締めつつあることによる農村の窮乏などが、家康在世のころにはなかった現象として出てきた。
切支丹などは、八つ裂きにして殺してもいい。
という狂気が支配層におこるのは、以上のような歴史事相とかかわりがある。
放虎原殉教地へのアクセス、行き方歩き方
長崎県大村市協和町
バスで(試験場下車、徒歩10分)
長崎自動車道大村おおむらICから車(約10分)
お問合わせ0957-53-4111 大村市観光振興課