島原半島の南部に位置し、明応5年(1496年)、日野江城の支城として有馬貴純によって築かれた。
有明海に張り出した丘陵にあり、本の丸、二の丸、三の丸、天草丸、出丸などで構成されていた。
今日の天気予報は雨、しかし、まだ大丈夫のようだ。
それより蒸し暑くまるで蒸し風呂に入ったようだ。
普賢岳も雲に隠れて見えない。
原城到着、大きな空堀が目につく。
乱のとき、一揆方はこの空堀全体を巨大な竪穴住居のようにした。
多くの柱を掘っ建て、上に屋根をつくってかやなどでふいたという。
ここに女子供、老人などの非戦闘員が居住した。
もともとこの空堀はふもとの蓮池につながっていて雨が降ると水が溜まり、平素は底の底まで泥だったといわれるから、ながく起居していれば湿気で病気になるものもでたであろう。
一揆から約130年後、この地にある願心寺(がんしんじ)の住職と各村の庄屋たちは、敵味方の関係なく遺骨を集めて地蔵を建立した。
この地蔵は「ほねかみ地蔵」と呼ばれており、「ほねかみ」には「骨をかみしめる」ということから「自分自身のものにする」「人々を助ける」という意味があるそうだ。
地蔵の前には花とともに、お菓子や千歳飴ちとせあめも供えられている。
本丸枡形の入口部分。
内馬場跡。
本丸下の大地を南(海側)に向かって進む。
向こうは早瀬の瀬戸、崖は30メートルほどもあり、崖下には穏やかな海が岩を濡らしている。
本丸下から空堀を挟んで東側は天草丸、ここにも1000人が籠城していたという。
平成12年(2000年)の調査では、国内最大級となる虎口遺構が確認された。
虎口の空間は南北90m、東西80mのほぼ正方形であった。
発掘当初の予想を越える規模であり、全国的に見ても最大級の虎口となる。
また、城内の主通路には玉砂利が敷かれていることも確認された。
これらの調査結果から、当時の原城は廃城とはなっていたものの石垣や城門、櫓等の防御施設が存在しており、現在の姿となったのは、島原の乱後の破却によるものと指摘されている。
空堀を挟んで向こうの広大な大地は二の丸、その向こうが三の丸。
本丸櫓台跡からの風景も素晴らしく、北に雲仙岳、南に島原湾、日暮城の名前通り、1日眺めていても飽きないかも知れません。
長くなりますが司馬遼太郎の街道をゆく〈17〉島原・天草の諸道 (朝日文庫)を引用します。
元和の一国一城令で廃城となった原城は、1637年(寛永14年)に全国の耳目を集めることとなった。
世に言う「島原の乱」が勃発したのである。
島原藩主の松倉重政・勝家父子は島原城建設による出費などの財政逼迫により苛政を敷き、また、過酷なキリシタン弾圧を行ったことにより農民一揆を引き起こした。
この一揆は島原半島のみならず天草にも飛び火し、島原城・富岡城が襲撃された。
しかし、一揆の攻城はうまく行かず、やがて一揆の群衆は天草の一揆群衆と合流し約3万7千人が廃城となっていた原城に立て籠もった。
小西行長の家臣の子孫といわれる天草四郎を総大将とし、組織立った籠城戦を展開して幕府軍と戦闘を繰り広げた。
島原の乱が天草と連動した根本的な理由は、寺沢広高が天草の石高を過大に算定したことにある。
天草の石高について、広高は田畑の収穫を37,000石、桑・茶・塩・漁業などの運上を5,000石、合計42,000石と決定したが、現実はその半分程度の石高しかなかった。
実際の2倍の収穫がある前提で行われた徴税は過酷を極め、農民や漁民を含む百姓身分の者たちを追い詰め、武士身分から百姓身分に転じて村落の指導者層となっていた旧小西家家臣を核として、密かに一揆の盟約が成立。
さらには内戦に至ったのである。
一揆側は3か月に及ぶ籠城には兵站の補給もなく、弾薬・兵糧が尽き果ててきた。
対する幕府軍も1千人の戦死者を出しながらも新手を投入し、ついに1638年4月11日から12日(寛永15年2月27日から28日)にかけての総攻撃で一揆軍を壊滅させた。
幕府軍の記録によると、一揆軍は(幕府に内通していた一名を除いて)老人や女子供に至るまで一人残らず皆殺しにされたという。
本丸から湯島(談合島)をのぞむ。
凶作にくわえて松倉氏の無惨なまでの年貢の取り立てにより、島原半島では多くの餓死者が出ていました。
領民たちは翌年の田植えに使う種籾すら、奪い取られていったといいます。
かつて有馬氏に仕え、武士の地位を捨てて島原半島に残った帰農武士たちは「この惨状をなんとかしなければ」と密かに話し合いを重ねるようになります。
苦悩していたのは島原半島の領民だけではありません。
関ヶ原の戦いで敗れたキリシタン大名・小西行長に代わって唐津領主・寺沢広高に治められていた天草の領民も、重い年貢と信仰の禁止に苦しんでいたのです。
そして天草では、宣教師が残した「天変地異がおこり人が滅亡に瀕するとき、16歳の天童があらわれ、キリストの教えを信じるものを救うであろう」という予言が注目を集めるようになります。
かつて小西行長の家臣であったキリシタン浪人たちは、その予言の下に結束するようになりました。
島原半島の帰農武士たち、そして天草のキリシタン浪人たちが集まったのは、それぞれの地の間に浮かぶ湯島でした。
彼らはここで談合を行い、一揆を図るようになるのです。
旧暦3月と8月の最干潮時に、南島原市の原城本丸沖合に白洲(リソサムニューム礁)といわれる浅瀬が姿を現します。
この浅瀬は珊瑚と異なり極めて珍しい植物の一種、学名「リソサムニューム」が繁殖してできたもので、普段は海中に沈んでいて見ることができませんが、最干潮前後にはその一部が浅瀬となって現れ、船で上陸することができます。
世界中でも珍しく、インド洋、イギリス海岸と原城沖の3ヶ所でしか見ることのできない貴重な場所です。
島原の乱の当時は、島原半島には司祭も助祭もおらず、要するに一人の神父もいなかった。
かれらがかついだ天草四郎時貞は、司祭でも助祭でもなかった。
カトリック世界から孤立しているという意味においても、島原ノ乱の一揆方は、悲壮な存在であった。
かれらの死はローマに報告されることなく、むろんのちのち日本側の資料によって事件は知られるようになったが、正規に殉教として認定されることはなかった。
切支丹はその盛んなときも、時の権力者に抵抗したことはなかった。
もし島原ノ乱の死を公協会が殉教であるとすれば、地上の君主への抵抗を追認することになり、ぐあいのわるいことになる。
池尻口門跡。枡形虎口に比べると、あまりに小さな虎口である。
本丸にある天草四郎の墓碑。「○保○年 天草四郎時○○ ○二月○二十八○母」などと書かれている。
かつて西有馬町の民家の石垣内にあったものを、この場所に移したものであるという。
本丸から島原方向を見たところ。籠城衆も同じ景色を見ていたことであろう。
来る当てのないポルトガルからの船を待ち続けます。
海上にオランダ船が出現して砲を打ち出したことは、一揆方に衝撃を与えた。
「これは国内戦ではないか。外国の武力を借りるとはなにごとか」という気概を込めた矢文が、一揆方から幕府陣地に射込まれている。
原文は、日本国中に然るべき武夫の何程も候はんに、和蘭人の加勢を乞ふこと、如何なることに候か。
心得られぬことなり。
という。
幕府こそ愧ずべきであろう。
本丸北側。
本丸城塁下の崩された石垣。乱後の破城によるものらしい。わりと大きな石材で、まさに近世城郭のそれである。埋め込み石や瓦も大量にあったとのことで、城塁上には瓦を伴った建造物があったことが分かる。
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住所:長崎県南高来郡南有馬町
電話:(0957)85-2153 原城観光協会
原城駅より徒歩15分