画像は国道から見た大斎原大鳥居、かつて神倉の地に降臨した熊野三神のうち熊野家津御子大神(けつみこおおかみ)が川を遡りこの地に坐したのが始めとされています。
熊野本宮大社の旧社地である大斎原は熊野川・音無川・岩田川の3つの川が合流する川の中州にある。
ちなみに、江戸時代まで音無川には橋が架けられなかったそうです。
そのため参詣者は音無川を草鞋を濡らして徒渉したそうです。
熊野では「濡藁沓(ぬれわらうつ)の入堂」と言って水で濡れたわらじと泥で汚れた着衣での参拝が許されていました。
参詣者は音無川の流れに足を踏み入れ、冷たい水に身と心を清めてからでなければ、入ることができない神域として信仰されていたそうです。
現在の社地は山の上にあるが、1889年(明治22年)の大洪水で流されるまで社地は熊野川の中州にあった。
明治以後、山林の伐採が急激に行われたことにより山林の保水力が失われ、大規模な洪水が引き起こされ、旧社地の社殿は破損した。
現在、旧社地の中州は「大斎原」(おおゆのはら)と呼ばれ、日本一高い大鳥居(高さ33.9m、横42m、鉄筋コンクリート造、平成12年完成)が建っている。
こちらが参道、木々がとても美しい。
現在の熊野本宮大社は、流失を免れた上四社3棟を明治24年(1891)に現在地に移築・再建したもの。
大斎原には、流失した中四社・下四社をまつる石造の小祠が建てられています。
大斎原の大社は、およそ1万1千坪の境内に五棟十二社の社殿、楼門、神楽殿や能舞台など、現在の数倍の規模だったそうです。
この大鳥居高さ約34m、幅約42m、ほんとに巨大です!!
入り口参道鳥居と立ち並ぶ表参道の白旗と階段。
立ち並ぶ「熊野大権現」の白旗が印象的。
参道入り口の鳥居は、神が宿る神域と人間が住む俗界との結界を表します。
参道の中央「正中」は神様のお通りになる道なので、右端を登り、左端を下るのが作法です。
杉木立に囲まれた158段の階段を上る広い境内には堂々とした本宮大社拝殿と神殿が建っている。
「八咫烏(やたがらす)」の神旗がお出迎え。
門をくぐって、向かって左手の社殿が牟須美(むすみ)・速玉(はやたま)の両神。
中央は主神の家津美御子神(けつみみこのかみ)。
そして右手は天照大神(あまてらすおおみかみ)が祀られています。
甘酒拝戴所で甘酒をいただきました。
「熊野権現垂迹縁起」によると、熊野坐大神は唐の天台山から飛来したとされている。
熊野坐大神(家都美御子大神)は、須佐之男命とされるが、その素性は不明。
太陽の使いとされる八咫烏を神使とすることから太陽神であるという説や、中州に鎮座していたことから水神とする説、または木の神とする説などがある。
家都美御子大神について他にも五十猛神や伊邪那美神とする説があり、菊理媛神とも関係する説もあるが、やはりその素性は不詳とされる。
古代から中世にかけて、神職はニギハヤヒの後裔で熊野国造の流れを汲む和田氏が世襲していた。
かつては湯立が行われており、「熊野権現垂迹縁起」では大斎原が「大湯原」と表記されていることや、熊野をユヤと読む際に湯屋や湯谷の字をあてられたことなどから、熊野信仰の中核に湯の観念があったことが指摘されている。
和泉式部が熊野詣をして、伏拝の付近まで来たとき、急に月の障りとなり参拝ができないと悲観してこれでは本宮参拝もできないと諦め、彼方に見える熊野本宮の森を伏し拝んで、歌を1首、詠んだ。
「晴れやらぬ身のうき雲のたなびきて月のさわりとなるぞかなしき」。
すると、その夜熊野権現が、夢に現われて
「もろともに塵にまじはる神なれば月のさわりもなにかくるしき」
とお告げがあり、参拝することができたという。
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