幾度も兵火に遭った最福寺旧跡(谷ヶ堂、延朗堂)

京都府

由緒書によると、延朗上人は、源頼朝の従伯父(いとこおじ)に当たることから、平治の乱で源氏が負けた後、平清盛に追われ、各地を転々としたという。

この寺院も他の例に漏れず応仁文明の乱によって衰退、現在はこの延朗堂が残るのみとなった。
堂内には鎌倉時代の作という延朗上人の木像を安置する。

寺院の案内板によると、松尾谷ヶ堂西福寺の開山・延朗上人については、「元享釋書」「太平記」「三井寺続燈記」「雨月物語」等に詳しく記されているということで、それらによると、延朗上人は、八幡太郎源義家の孫にあたる源義信(源義親の長子)の長男として但馬国養父郡に誕生した。

上人は幼くして父母を失ったために、元養元年(1144)、十五歳で出家し大和(奈良県)の比曽寺に入る。

その後、近江(滋賀県)の三井寺や比叡山延暦寺で修業し天台密教を極めるが、平治の乱後の三十歳の時、源氏出身ということで平清盛に追われて各地を遊歴し、遠く奥州松島にある廃寺に入った。

そして、安元二年(1176)、四十七歳の頃にようやく帰京し、この松尾山麓に壮大な池を掘って七堂伽藍を建立し、松尾社(松尾大社)の神宮寺として最福寺を創建した。
「吾妻鏡」によると、その後、源義経が入京し、最福寺の興隆を願って丹波国亀岡篠村庄を寄進したが、この篠村庄は、元々、三位中将平重衡の所領で、義経が平家追討の恩賞として拝領したものだった。

延朗上人はこの寄進に遠慮しながら、已むなくこれを受けた。
そして、村人に阿弥陀如来の名号を唱えて祈る事を勧め、その数に応じて年貢を免除する等の善政を施し、当時流行していた悪病難病の治療のために寺内に浴室を造って病人の看病を行ったともいわれる。

(尚、義経が鎌倉幕府から追討された後、上人は篠村庄の辞退を申し出るが、幕府は文治二年(1186)に上人の以前通りの領有を承認している) 
こうして、上人は顕密兼備の名僧として多くの人々から崇敬されて松尾の上人と呼ばれ、承元元年(建永二年 1207)正月十二日に七十九歳で入寂した。

松尾明神が坐したという坐禅石、松尾明神に関わる石は西芳寺にもある。

「さしのべ観音」
延朗上人八百回大遠忌記念に建てられたようだ。
右にあるのは六体地蔵、人間が死ぬと天や地獄などに生まれ変わるという六道輪廻(ろくどうりんね)の教えと関係があるよだが、あまり詳しくは書かれていない。

「平治、元弘、応仁、元亀の乱 戦火ゆかりの地」の碑
元弘の乱は後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒すために起こした乱で、応仁の乱は室町時代に細川勝元と山名宗前が東西に分かれて争った戦い。

また、元亀の乱は、織田信長が比叡山を焼き討ちした事件。
いずれも歴史上の重大事件で、そのたびに最福寺も兵乱に巻き込まれた。

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最福寺旧跡へのアクセス、行き方歩き方

住所:京都市西京区松室山添町22
TEL・FAX 075-381-2937

京都バス「苔寺」 徒歩約5分
市バス「北河原町」徒歩約7分
阪急電車「松尾」駅徒歩約10分