常陸国一之宮 鹿島神宮

関東

全国に約600社ある鹿島神社の総本社。
神栖市の息栖神社、千葉県香取市の香取神宮とともに東国三社の一社。

宮中の四方拝で遥拝される一社。
初詣には全国から60万人以上が参拝し、参拝者数では茨城県2位。

国宝の直刀を所蔵するほか、境内は国の史跡に、本殿・拝殿・楼門など7棟が国の重要文化財に指定されている。

楼門は日本三大楼門の1つにも数えられる。
そのほか、鹿を神の使いとすることでも知られる。

2011年東北地方太平洋沖地震により、大鳥居(二の鳥居)・御手洗池鳥居が完全に崩落し、多くの灯篭が倒れた。
他にも池の水が少なくなったりしたが、国宝や重要文化財に損傷はなかった。

2012年1月、境内の杉材を用いて大鳥居を再建することが発表された。2014年完成予定。

表参道・楼門
朱塗りの楼門(ろうもん) 寛永11年(1634年)に水戸初代藩主 の徳川頼房公(よりふさ)が奉納(ほうのう)された。
頼房公は水戸黄門光圀公(みとこうもんみつくに)の父親です。

扁額は東郷平八郎の書。
日本三大楼門の1つ。
国の重要文化財。

拝殿
本殿同様、徳川秀忠による造営。
本殿とは対照的に白木作りの簡素な意匠。
国の重要文化財。

東西に伸びる参道に対して本殿は北面しているという関係上、参道の右横に拝殿があるという構造になっている。

仮殿
本殿修理の際などに一時的に祭神を遷座する社殿。
本殿同様、徳川秀忠による造営。国の重要文化財。

石灯籠
搭高256cm、宝珠、竿は円形で、笠・火袋・中台・基台は各々6角形をなしている。

宝珠の下部には請花を彫り、笠には蕨手が巻き上がっている。
火袋は上下に格狭間を配している。

中台は格狭間の下に請花を彫り、竿は上下に2本、中部に3本の横線を刻む。
基台は反花が深く彫られている。

竿の部分に「奉寄進 藤原朝臣安藤対馬守重信 鹿島大明神御宝前 元和五巳未六月大吉祥日」と銘文があり、制作年代は1619年。

長く伸びる参道を「要石」へ向かう。

要石への途中にある「大鯰の碑」
剣をもち大鯰を抑える武甕槌神

奥宮 祭神:武甕槌大神荒魂

社殿は、慶長10年(1605年)徳川家康による関ヶ原の戦い戦勝時の御礼としての奉納。
当初は本殿として使われたが、元和5年(1619年)の造替により奥宮として使用。
総白木作りの簡素な意匠。
国の重要文化財。

要石の廻りを取り囲む参拝者。

要石は地上部分はほんの一部で、地中深くまで伸び、地中で暴れて地震を起こす大鯰あるいは竜を押さえているという。
あるいは貫いている、あるいは打ち殺した・刺し殺したともいう。

そのためこれらの地域には大地震がないという。
ただし、大鯰(または竜)は日本全土に渡る、あるいは日本を取り囲んでいるともいい、護国の役割もある。

鹿島神宮の要石は大鯰の頭、香取神宮の要石は尾を押さえているという。
あるいは、2つの要石は地中で繋がっているという。

万葉集には「ゆるげどもよもや抜けじの要石 鹿島の神のあらん限りは」と詠われている。
江戸時代には、この歌を紙に書いて3回唱えて門に張れば、地震の被害を避けられると言われた。

1255年(建長8年)に鹿島神宮を参拝した藤原光俊は、「尋ねかね今日見つるかな ちはやぶる深山(みやま)の奥の石の御座(みまし)を」と詠んでいる。

古墳の発掘なども指揮した徳川光圀は、1664年、要石(どちらの要石かは資料により一定しない)の周りを掘らせたが、日が沈んで中断すると、朝までの間に埋まってしまった。
そのようなことが2日続いた後、次は昼夜兼行で7日7晩掘り続けたが、底には達しなかった。

1855年10月の安政大地震後、鹿島神宮の鯰絵を使ったお札が流行し、江戸市民の間で要石が知られるようになった。

地震が起こったのは武甕槌大神が神無月(10月)で出雲へ出かけたからだという説も現れた。

芭蕉句碑
枯枝に鴉(からす)のとまりけり穐(あき)の暮』(穐は秋の古語)

小林一茶(こばやしいっさ)が文化十四年(1817)に鹿島神宮に参拝したようだ。
そのときに詠んだ句「 大地震(おおなえ)にびくともせぬや 松の花 」

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鹿島神宮へのアクセス、行き方歩き方

鹿島神宮公式サイト

茨城県鹿嶋市宮中2306-1

JR東日本鹿島線 鹿島神宮駅 (徒歩10分) – 鹿島臨海鉄道大洗鹿島線も乗り入れ