貞和2年(1346年)に東福寺第43世・性海霊見(しょうかいれいけん)によって創建された。
応仁の乱により一時荒廃したが、慶長年間(1596年 – 1615年)に安国寺恵瓊によって再興された。
その後、石田三成と宇喜多秀家らと親しくなり、関ヶ原の合戦で西軍に加担。
戦いに破れ、京の六条河原で小西行長、石田三成とともに斬首され、三条河原に晒されたが、建仁寺の僧が恵瓊の首を持ち帰り、方丈裏に手厚く埋葬したという。
幕末の鳥羽・伏見の戦いの際、東福寺に長州藩の陣が置かれた縁で、退耕庵は鳥羽・伏見の戦いの戦死者の菩提寺となっている。
門前に戊辰役殉難士菩提所の碑がある。
退耕庵は、平安時代前期の女流歌人“小野小町ゆかりの寺”と紹介されている。
山門を潜ると直ぐ右手側に「小町寺」の額を掲げた地蔵堂がある。
覘くと堂奥の中央には高さ3メートル、右手に錫杖、左手に宝珠を持った、白い顔の地蔵菩薩坐像が安置されている。
玉章(たまずさ)地蔵と呼び、もとは東山区の渋谷(しぶたに)越えにある清閑寺近くの小野寺に祀られていたが、廃寺となったため明治8年(1875)に退耕庵に移されたという。
地蔵体内には小野小町あての恋文を多数納めていると伝えることから、良縁をもたらすといわれている。
退耕庵参道 左に客殿 右に地蔵堂。
「小町寺」の額を掲げた地蔵堂。
山門を潜った右側には地蔵堂があり、中央には高さ約三メートルの土製の地蔵菩薩像が安置されています。
これが小野小町ゆかりの「玉章(たまずさ)地蔵」、またの名を「文張り(ふみはり)地蔵」と呼ばれる地蔵菩薩像で、「洛陽四十二番霊場」となっています。
「玉章(たまずさ)」とは手紙(艶書=ラブレター)の意味で、この地蔵菩薩像は、胎内に小野小町に寄せられた多数の艶書を収めていると伝えられることから「玉章地蔵」「文張り(ふみはり)地蔵」の名があります。
伝説では多くの男心を苦しめた小町が、己の罪業を償うためこの地蔵菩薩像を作ったとされ、良縁を結び悪縁を絶つといわれ信仰を集めています。
この地蔵菩薩像は、元々、京都市東山区渋谷越え(しぶたにこえ)にあった小野寺に祀られていたもので、小野寺が廃寺となったため、明治八年(1875)にこの地に移されたものということです。
小野小町百歳井戸
地蔵堂の横にある。
老いた小野小町が、井戸の水面に写った自分の姿を見て嘆いたといわれる。
「おもかげの 変らでとしの つもれかと たとえこの身に限りあるとも」と詠んだといわれる。
傍の石標は1701年(皇紀2361)元禄14年のもの。
退耕庵へのアクセス、行き方歩き方
住所:京都市東山区本町15-793
Tel:075-561-0667
拝観には予約が必要。
京阪電車 東福寺下車 徒歩約5分
市バス 東福寺下車 徒歩約2分
JR 東福寺下車 徒歩約5分