今回の小浜訪問の目的は「ふぐ」、泊ったのは若狭ふぐの宿 下亟、食べきれないほどの量でフグ鍋は翌日の朝食に持越し。
小浜城址、小浜城を作る際に若狭の百姓にだけ多い年貢を取り立てた。
これに抗議し忠勝に処刑された庄屋である松木庄左衛門を祭る神社が福井県三方上中郡若狭町新道にある。
水上勉は随筆の中でこのことに触れ、「めったに国に帰らないのに城だけは作らせた」「百姓の血汗を絞って作った小浜城」と記している(『水の幻想』)。
松木神社の記事はこちら鯖街道の宿場町 熊川宿
若狭ではいつの頃からか小浜を中心に「京は遠ても十八里」と言われており、与謝蕪村( … 続きを読む →
小浜市役所前の忠勝像、酒井 忠勝(さかい ただかつ)は、武蔵川越藩の第2代藩主、後に若狭小浜藩の初代藩主。
第3代将軍徳川家光から第4代将軍徳川家綱時代の老中・大老。
梅田雲浜は江戸時代末期(幕末)の儒学者。
通称は源次郎。名は義質、定明。号は雲浜のほか、湖南。
雲浜の号は、若狭国小浜海岸からの由来で名づけたという。
嘉永5年(1852年)に藩主・酒井忠義に建言したのが怒りに触れて藩籍を剥奪。
嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のマシュー・ペリーが来航すると条約反対と外国人排斥による攘夷運動を訴えて尊皇攘夷を求める志士たちの先鋒となり、幕政を激しく批判した。
これが時の大老・井伊直弼による安政の大獄で摘発され、2人目の逮捕者となった。
辞世の歌
君が代を おもふ心の 一筋に 我が身ありとも 思はざりけり
杉田玄白記念公立小浜病院、病院名は、『解体新書』を著した杉田玄白が小浜藩出身であったことに因んでおり、病院正面には杉田玄白の銅像がある。
杉田玄白は江戸時代の蘭学医。若狭国小浜藩医。私塾天真楼を主催。 父は杉田玄甫、母は八尾氏の娘。
杉田氏は近江源氏である佐々木氏の支族である真野氏の家系。後北条氏に仕えた真野信安のときに間宮姓に改め、子の長安の代に復姓。
医家としては、玄白で3代目にあたる。同時代に活躍し、間宮海峡にその名を残す探検家である間宮林蔵は同族。
病院には杉田玄白コーナーがある。
外科医であった玄白は、ハイシュテルの外科書を見て西洋の外科のすばらしさを知り、西洋のものを学びたいと思って『ターヘル・アナトミア』に出会い、小塚原で人体解剖を見て、この『ターヘル・アナトミア』に描かれている解剖図の正確さに驚き感動。
それを翻訳しようということで、幕府長崎通訳を通して、オランダの解剖書『ターヘル・アナトミア』を手に入れた。
そして、前野良沢・中川淳庵とともに翻訳に取りかかり、玄白42歳の1774年(安永3)に世に知られた『解体新書』が発刊された。
関連記事